東堂×巻島

はじめての約束

 約束をしよう。
 嘘をついたら、千本の針を飲み込むような。
 約束をしよう。
 絡んだままの小指を切り取って、誓紙の代わりにするくらい。

 大事な、大事な、はじめての、約束を。
 


「……っ……ふ……」
 まるで呼吸を盗まれるような接吻に、熱さで焦げ付きながら脳の奥が痺れる。
―― いや、盗まれるというよりも、これは根こそぎ奪い尽くす略奪だ。ふつうなら恋情を相手へ与えるはずの行為は、ひらすら激しく、稚く、そして遠慮がないほどに呼吸も意識も略奪していく。
 重なり合った、柔らかな唇と唇。大人になりきれない唇の表面は共に脆弱で、共に滑らかなままだった。
 ただ、押し付けるだけなのに、どんな行為よりも激しく感じる唇の接触。閉じた瞼の痙攣がとまらない。
 雨に濡れたままの服と、温度のない冷たい壁だけが熱くなる身体を諌める手立てだ。
 灰色の壁には珍しい色合の髪が幾束か残っている。雨に晒されていた髪は湿りを帯びたままで、普段の色より濃い緑を放っていた。まるで構造色を持った孔雀や翡翠が、雨に濡れたかのようだった。
 壁に貼りついた髪の乱れは、明らかに唇同士の接触を避けようとした趣が残っていた。何度か首を横に振ろうとして失敗し、うねりながら乱れてしまったのだ。
 まだ育ちきってない白い喉仏が上下に動く。呼吸が苦しい。心臓の下も、捻られたように苦しかった。
 閉じていた豊かな睫が、そっと周囲を窺うために開いた。開いて、舌を打つ気持ちで後悔した。
 青みがかって見える意志の強い瞳は閉じておらず、じっと自分の方を見据えていたからだ。
 わずかに空いた胸と胸の隙間に手を差し入れ、押し退けようと試みる。行為そのものは嫌悪の欠片も含まないのに、拒む気配をみせてしまったのは、その真っ直ぐな瞳が怖かったのだろう。
 触れ合った唇の感触だけなら心地良いと、別の部分でちゃんと認識しながら、巻島はそんなことを思っていた。
 巻島はキスの経験はそんなに多くない。同年代の少年たちよりも、実は経験が不足していると理解している。
仮に経験が有ったとしても、稚くて幼い口付けばかりだ。
 人付き合いが苦手で、自分のパーソナルスペースに入り込まれることを極端に嫌う巻島は、とうぜん相手のパーソナルスペースに入ることも嫌だった。
 冷たい。なにを考えているのか分からない。通り一辺倒の拒絶の言葉などもう慣れた。
 慣れて固い殻を被り、他人を拒んで平気になったところで闖入者が現れたのだ。
ずかずかとこの少年は自分のパーソナルスペースに土足で入り込み、反対に巻島まで自分のパーソナルスペースへ引き込んでしまったのだ。その見事さと素早さは、自称・眠れる森の美形、こっそり他称では森の忍者と呼ばれる少年にふさわしい手際の良さだった。
 稚い接触。触れるだけで満足した幼いキス。
 だが今の彼はちっとも森にも奥まった部屋にも潜んでいない。児戯めいた口付けなどでは満足せず、まだまだ幼い容貌のくせに、そんな幼い行為は許さない少年だった、恋情や劣情、あらゆる思いを直截に口へねじ入れてくる激しさを持っている。
 そのひたむきさが、怖い。
 拒絶の声も息継ぎも奪うような、そんな激甚とした接吻ははじめてで、どうしていいのか巻島には分からない。自分がされている行為だけを思えば殴っても当然だし、蹴っても許されるだろう。
 でも、できなかった。できるはずが無かった。
本心から彼を拒絶したくない思いが半分、殴ったり蹴ったりして後遺症でも患えば、雨の中で交わした約束を反故にしてしまう恐れが半分。巻島の微妙な気持ちの成分はそんなところだ。
 自分の呼吸が苦しくなったのか、あるいは縺れ合う内に頭から落ちてしまったカチューシャが気になったのか、ようやく呼吸と理性を略奪していた少年が離れる。
 まろい額を晒しているときは童顔にさえ見えるのに、前髪が落ちて表情を隠しがちになると、意外にも大人びた姿も垣間見せる。
 大きく息をつく。熱が篭っていない、雨の匂いだけがする空気は、やたらと新鮮に感じられて表情筋が歪んだ。こんな状況では笑いたいのか泣きたいのか巻島にはわからない。結局どちらともつかない、中途半端な顔を晒すしかなかった。
 落ちたオレンジ色のカチューシャを少年が拾う。思えば彼と初めて出会ったときの第一声が、「そのカチューシャ、かっこ悪いっショ」だった。恒常的に口にした言葉が皮肉の膜で覆われる巻島に対し、相手は相手で巻島の髪の色を指し、「タマムシ」などと失礼な暴言を吐いたものだ。
 後日、数少ない友人である田所に事の顛末を話すと、どっちもどっちと、呆れたように笑われたのだが。
 巻島なみに口の悪さと生意気さで比肩する相手は、山の頂を制する戦いに置いても、比肩し得る男だった。
 七勝七敗五引き分け。
 本当なら今日の勝負記録だけで見るなら、巻島が七勝八敗五引き分けとなり、負けが先行するはずだった。だが高い矜持を持った相手は、巻島のタイヤパンクによるリタイヤを認めなかった。バカ正直な潔さと、真っ直ぐに向かってくる勝負へ執着する心は嫌いではない。
 嫌いではないが、この約束の方法が少し間違っている状況は否めないだろう。
 勝負は次のインターハイまで持ち越しだと言った。互いの学校がインターハイ代表に選ばれないかもしれないという、そんな予測は端からない言い分だ。自分がインターハイに出るのだから、巻島もインターハイに出るのは当然とする、強者ゆえの傲慢さ。
もっともその傲慢な思いは巻島も同じだ。
 インターハイに出る。
 そして勝負をつける。
 今までは山の頂を賭ける戦いに約束は不要だった。山の神は浮気性と悋気を兼ね揃えていて、いつでも自分と彼しか愛さない。だから山頂にタイヤの跡を刻むのは、いつもいつもこの二人の内のどちらかだ。
 最後の勝負にはじめての約束とは、珍しく気が利いていると思った。
同時に寂しいとも。
 高校生活で、きちんと形と記録に残る勝負は、これが最後だ。はじめての約束には気が昂ぶるが、最後の約束だと考えると胸が塞がれてしまう。
 胸の閉塞感を感じないふりで巻島は立ち上がった。今になって考えてみれば、ぐいぐいと壁際に追い込まれて呼吸を奪われたのは業腹だ。やっぱり一発くらい殴っておくべきか。
「あのさあ、巻ちゃん」
 人と距離を置く巻島を、「ちゃん」付けで呼ぶ希少品種の少年は、垂れた前髪を掻き揚げながらニンマリと笑った。
 趣味がいいとは思えない色のカチューシャを指先で弄びながら、夜明け間近の空に似た瞳が真っ直ぐに巻島を見た。
「約束ってさ、印象が残った方が頭に残って、意地でも守ろうって気にならない?」
 それで強奪するように口付けたのか。ばかばかしい約定もあったものだ。
 実際は接吻だけではなく、それ以上の行為の経験がなかった訳でないが、こんな場所でこんな形での行為は初めてだった。
 自分ひとりが動揺していると悟られるのは癪で、いつもと同じ笑みを唇の端に刻みながら巻島は肩を竦めた。
 どんなことでも、どんな形でも、この少年に負けるのだけは嫌だ。
 負けて、もうお前と勝負する価値がないと宣言されてしまうのが怖い。
「ならないっショ」
「えー! なるだろフツー! 俺なんて荒北に今度入った一年相手に、練習中のクライム勝負で負けたら、前髪を切るって約束させられたんだぜ? 気合入るだろ?」
 それは妥当な約束だ。むしろ、切れっショ、邪魔くさい……。見事に巻かれた己れの長髪を棚上げし、辛らつな言葉を浴びせようとしたがなにも言えなかった。皮肉は歯の裏側にぶち当たって止まって終わりだ。
 部活という形でもクライム勝負ができる箱根学園の一年が、少し羨ましく感じてしまう自分自身に気づいたのだ。
 この山では今日、自分たちは勝負の決着をつけることができなかったのに。
 代わりに出た言葉は、まったく心の篭らない賛辞だった。
「……ああ、そういや言ってなかったっショ。優勝おめでとう」
 ご自慢の前髪をカチューシャで上げながら、賛辞へ向けられた少年の顔は、苦虫を纏めて数匹噛み潰したような顔だ。
「巻ちゃんと競ってない優勝なんて意味がないし、つまんないね」
 事実、彼は優勝台に上っても機嫌の悪い顔をしていた。左右の、特に二位の選手の方を見ないようにしていたくらいだ。
 初めての勝負で巻島に山頂を獲られ、地面に手袋を叩きつけて怒った、負けん気の強い少年とは思えない言葉だった。それだけ巻島との勝負のみに拘っているのだろう。
 ……巻島との勝負に執着する言葉が、純粋に嬉しい。
 むろん、会話のチャッチボールが苦手な巻島は口には出さないが。
「俺は巻ちゃんに勝つ」
 突きつける指先が心地よい。クハッと独特の笑い声を漏らして巻島は笑った。
 定規で引いたように真っ直ぐ射抜く瞳。子供のころ以来、久しく「ちゃん」付けで呼ばれなかった自分を、親しげに「巻ちゃん」と呼ぶ声。
 真っ直ぐな瞳と声に挽かれ、巻島はわずかに背中を丸めた。ここ一年で伸びた身長を持て余しながら、自信に溢れた少年の唇へ己のそれを重ねる。
 今度は巻島も目を閉じなかった。
 向こうも目を閉じなかった。
 大人と呼ぶには幼く、子供と呼ぶには経験を積み過ぎた少年たちには、口付ける行為ひとつさえ恋情より対抗心が勝っている。
 薄紙一枚分ほど唇が離れた位置で、巻島は口にするだけで身体に血が巡る少年の名前を呼んだ。
「俺に負ける、その間違いっショ、東堂?」


 約束をしよう。
 病める時も健やかなる時も共に歩むように。
 約束をしよう。
 皮膚に癒着して、二度と取れなくなった指輪の代わりに誓詞を交えよう。


 はじめての、約束を。

                                終