東堂×巻島

そこに君がいるから

 やだ。

 常に無駄な自信に溢れ、俺様王子様を地で行く少年の一言はそれだけだった。
 鳥の構造色に似た髪をかき上げながら罵声ではなく、嘆息だけで済ませた自分を、巻島は心から寛大な人間だと自画自賛できる。
 目の前には腰に手を当ててふんぞり返る、我侭カチューシャ王子がいる。
 カチューシャ王子に対し、巻島が出した提案は至極真っ当なものだった。
 連休に競り合うはずだった個人練習が、カチューシャ王子の機材トラブルで満足に競り合えなかった。幸い連休だし、翌日にもう一度勝負しようとする流れは当然だろう。時間的に見て巻島が千葉の自宅に帰るより、箱根の温泉つきホテルに一泊するもの問題ない。幸い裕福な巻島家が愛息子に与える資金は潤沢だ。
 そこに箱根が地元でありながら、カチューシャ王子が便乗して一緒に泊まると言っても、まあ許容の範囲内だった。
 風呂上りさっぱり旅気分、浴衣の帯はなぜか縦のちょうちょ結びになったカチューシャ王子が、一緒のベッドに入ると駄々を捏ねたりさえしなければ。
 部屋はツインである。隣には糊が効いた真っ白なシーツがカチューシャ王子を誘っているはずだ。それなのに、わざわざ自分のベッドへ同衾したがる意味が分からない。
 巻島は「隣のベッドで寝ればいいっショ」と、ごくごく当たり前と思われる提案したのだが。

 やだ。

 一言で切り捨てられた。

 なぜだ。
 なぜ自分は、こんな益体もないことで頭を痛めなければならないのだろう? 

 確かに半年前ほど前、巻島と件のカチューシャ王子は越えてはならない一線をうっかり越えてしまった、いわばただならぬ仲ではある。だが巻島はエキセントリックな風貌に反し、意外と常識を愛する男だった。越えてしまった一線部分は、極めて異例の事態と自分の中で位置づけている。そうでもしなければライバル校の、しかも同じ男子生徒とあんな事やこんな事までしてしまう訳がない。
 自分の心の裏側にある恋情部分は潔く気づかないふりで、巻島はこめかみに白い指を当てる。ひどい頭痛に溜め息が出た。この超弩級の溜め息が突風となって、あのふんぞり返る物体をなぎ倒せたらいいのに。
「……東堂……?」
「オレと巻ちゃんが一緒にいて、同じベッドじゃないのは不健全じゃないか!」
「……いや、どこからツッコミ待ち?」
 思わず尋ねてしまった。
 男子高校生二人がシングルベッドで同衾、こっちの方が不健全そのものではなかろうか。
 巻島の疲れがどんどん堆積していくのに、目前の縦ちょうちょ結び男は親指を立ててポーズを決めている。
 人間の言葉通じないのか、こいつは。
 浴衣で帯が縦のちょうちょ結び、頭に愛用のカチューシャを装備した少年は、間違いなく巻島の知る東堂尽八だった。だがあまりの言葉の通じなさに、東堂に化けた妖怪ぬらりひょんか何かではないかと思う。
 まあ、見た目はぬらりひょんより豆腐小僧だが。
 見た目は濡れ女のくせに、巻島もけっこう失礼だ。濡れ女の内心を気にしないカチューシャ王子は、白眼にもめげず自信満々な態度を崩さなかった。
「大丈夫! オレは美形だからな! 美形は紳士と決まってるんだ! よかったな巻ちゃん、オレが美形で!」
 言っている言葉の意味が分からないし、こんな不快なサムズアップも見たことがない。巻島は同じ日本語を喋る民族でありながら、未だ嘗て、ここまで通訳の必要性を感じた経験がなかった。
 東堂に意訳できる通訳が欲しかった。心から。
 金城か荒北あたりに通訳を頼むために連絡を入れようか……、本気で携帯電話に手を伸ばしたそこに、勢いよく東堂が飛び込んでくる。
「ちょっ……東堂!」
 巻島を抱き込む形で飛び込む姿は、アニメのルパン三世が不二子に対する行為を彷彿させた。ルパン三世のように、ベッドに飛び込む時点で服が脱げ、パンツ一枚になってないだけマシというところか。
 背中からベッドに叩きつけられた格好だが痛みはなかった。東堂が背中に回した手でうまく衝撃を和らげてくれたらしい。さすがに豆腐小僧の柔らかさとルパン三世のトリッキーさを兼ね揃えた男。
「だーかーらー、一緒に寝るだけだって。明日の勝負に影響するような真似、美形の心得としては絶対にやらんね!」
 できれば人としての心得も持って欲しいと思うのは巻島の我侭なのか。
 薄い巻島の胸に秀でた額をぐりぐり擦りつける東堂に、うんざりした顔で巻島は諦めた。こうなったら東堂は梃子でも動かないだろう。この諦めのよさと東堂に対する甘い態度こそ、我侭王子を付け上がらせている原因なのだが。
 自分で自分の首を絞めていると理解してない部分が、巻島裕介という人間の最大最悪な不幸への呼び水だった。
 すっかり諦めて自分の胸や首に鼻先を擦り付ける東堂を放置しておく。かまうと余計に付け上がるのは分かっているので、ここは飽きるまで辛抱せねばならない。クライマーの気質として、巻島は非常に我慢強かった。
 対する東堂もクライマーの気質として、行為や行動に対して粘り強い。
 ゆえに親はおろか、友人たちにも見せたくない状況がえんえんと続く。こんな姿、親が見たら絶対に泣くだろう。数少ない友人だってドン引きだ。豪放磊落な田所なら笑って済ませるかもしれないが。
 長引く状況に、さすがに堪忍袋の緒が切れた。
「東堂、重いっショ!」
 実際は東堂が全体重を預けていなかったせいか、苦痛に思うほど加重は感じなかったのだが、圧し掛かられて甘えられては精神的に鬱陶しいのだ。
「あ、そっか」
 巻島が言えばあっさり身体から離れたものの、東堂は首を傾げながら視線をうろうろ彷徨わせている。
 視線が定まった瞬間、巻島の浴衣の合わせ目に手を突っ込んで膝裏を掴んだ。驚きの声をあげる前に、意外と膂力のある手が巻島を大股開きにさせてしまった。大きく左右に広がった足の間に、ちょこんと座る東堂は満足げだ。
「な、なななななんショ!? と、東堂、今日はしないって……」
「当然だ。明日は勝負だからな。美形紳士として約束は守るさ」
 浴衣が大きく割られ、素足を晒した巻島は目を白黒させながら真剣な顔の東堂を窺い見る。確かに嘘は言ってないようだが、だが、しかし。
「じゃあ、コレはなんショ?」
「はじめは巻ちゃんの顔をちゃんと見るのに、巻ちゃんの膝上でも座ろうとしたんだけどさ。オレが座って巻ちゃんの脚が痛んだらコトだしなー。だから脚の間に座った!」
 小鼻を膨らませてうんうんと頷く、気遣いの方向性が全力でおかしい少年。巻島は脱力した。
 確かに明日の勝負に脚は大切だ。脚の上にどっかり座られては巻島に影響が出かねない。だがベッドから降りるとか端に寄るとか、そんなありきたりの選択肢が東堂の中に存在しないのは何故だろう。
 しかも。
「……東堂?」
「なに、巻ちゃん?」
「紳士がなんでオレの股を探っているショ?」
 白い腿の内側をすりすり撫でる手はよどみがなく、巻島が突っ込んでも停滞する雰囲気はまるでなかった。
 真摯な面持ちのまま東堂が胸まで張って応える。
「そこに腿があるから」
 ……埋めたい。地中深く埋めてしまいたい。
 ……どこかの山中にこのバカを埋めてきたら、やっぱり叱られるだろうか?
 叱られるどころか犯罪行為すら考え始める巻島。
 だいたいそこに腿があるからとはなんだ。登山家として有名だったジョージ・マロリーへ、「あなたはなぜエベレストに登るのですか?」との記者の質問に対し、「そこに山があるから」と答えた言葉は余りに有名だ。それをもじったとしてもエベレストに挑む言葉ならともかく、腿を撫でさする行為で威張る言葉に感銘など受けるはずがない。
 ジョージ・マロリーはエベレストで遭難し、75年間も遺体が見つからなかったが、このおさわり似非紳士を地中に埋めたら75年は見つからないだろうか。
 現行法律では完全犯罪が成立するようなことを頭の隅で考え、巻島は溜め息をつきながら拳を振り上げる。
 ごつん。
 固い音は東堂の秀でた額から。
「痛ェッ! なにすんだよ、巻ちゃん!」
「山中に埋められないだけマシっショ! はやく手をどかすっショ!」
「ばかやろう! 赤ん坊のほっぺをぷにぷに突っ突くのも、猫の肉球をふにふに揉むのも、止めるには勇気がいるんだぞ!? 巻ちゃんの腿だっておんなじだ!」
 真摯な顔をしていたものの、腿を撫で回しながら言われたところで説得力があるはずもない。
 世間的にどうでもいい東堂の主張を、巻島側が受け入れる謂れはなかった。常に皮肉めいた笑いを浮かべている顔に珍しく怒気が浮んだ。
「ど、か、せ」
 一言一言一区切り。
「い、や、だ」
 一言一言一区切り。
 空気が撓むような重圧が周囲を支配する。重苦しい支配を免れているのは、やたらと白い巻島の腿の内側と、その肌を上下に行き来する東堂の掌だけだ。
 レースで競り合う坂の上でも見られないような緊迫感。先に折れたのは、ひたすら東堂に甘い巻島の方だった。
 一緒に泊まると駄々をこねる東堂を許し、同じベッドで寝ると主張する尽八を受け入れ、そして今度は腿を触らせろと身勝手な意見をも通そうとする。
 巻島は自分自身が我侭王子・東堂尽八をスポイルしていることに、全くこれっぽっちも気がついていなかった。
「あと2分」
「もう5分」
 築地の仲買人なみの激しい攻防。
「……3分がギリっショ……」
「しょうがないなー、巻ちゃんは」
 やっぱり我侭王子製造ライン責任者が折れてしまう。東堂はとことん上から目線でご満悦だった。
 沈黙の中、しばらく公認の痴漢行為が続く。
 このまま3分きっかり公認の痴漢行為が続くと思われたが、驚いたことに東堂から沈黙を破った。
 それも、おそろしく下手に出ながら。
「……なあ、ま、巻ちゃん?」
「なんショ」
「その、なんというか……若いって、それだけでイロイロ大変だとか思うよな……思うよね? 思ってよ? ……思って下さい」
 真っ赤になって俯きながら、それでも公認痴漢行為だけは続行して東堂は呟いた。
 巻島は日本中の苦虫を噛み潰したような顔で東堂を、正しくは東堂の股間を眺めている。もはや声すら出す気力が無い。
「ほ、ほら、巻ちゃんの肌、すべすべで気持ちよかったから、つい……」
「ついで済ませられるモンじゃないショ!」
「わ、分かっている! 俺も美形紳士として最初の約束は違えない! 違えないけど……巻ちゃん、触ってもらっていい?」
 世界中の苦虫が巻島の口に運ばれたかのようだった。それほど白い顔は苦りきっている。
「水でも被ってくればいいんじゃナァい?」
 にべもない言葉に東堂が恨めしそうに巻島を見上げた。そして禁断の一言を呟く。
「巻ちゃんだって、ちょっと元気になっているくせに?」
 白い肌に吸い付くように置かれた掌が、腿の筋肉がバネのように撥ねたことでするりと浴衣の奥へ向かう。そこには若い劣情の兆しがあった。
 確かに些細な刺激ひとつで、律しようとする心に反して身体が乱れるのは若さゆえだ。
「お、オレは東堂ほど……」
 火照る兆しを見破られて苦虫を吐き捨てた巻島が狼狽した。むろん、森の忍者はそんな隙を見逃すはずが無い。
「このままじゃ巻ちゃんだって辛いだろ? ただお互い触るだけだし、絶対それ以上はないって約束する。巻ちゃんとの勝負以上に大事なもんなんてないし……巻ちゃんだってそうだろ?」
 真っ直ぐに見詰める東堂の視線を受け止めきれない。だが視線を逸らしても頬に、鼻梁に、眦に、直ぐな力を感じてしまっている。
 巻島は溜め息をついた。東堂と居ると、一生分の溜め息を使い果たした気分になる。
「……しょうがねェな」
 特大の溜め息をもう一度吐いて、巻島の指が縦のちょうちょ結びになった東堂の浴衣の帯を掴む。東堂の腕が白い腕と交差しながら、横のちょうちょ結びで縛られた巻島の帯を掴んだ。

 衣擦れの音が、ふたつ、した。



 二人分の呼吸と熱ですっかりぬるくなった部屋で、かさこそと浴衣を直す音がする。
「もう本当に寝るっショ! 東堂はあっちのベッドで寝るっショ!」
 照れると早口になる巻島の頬は赤かった。それが互いの手で自慰めいたことを行った熱が燻っているのか、あるいは東堂の手の中に劣情を放ったことが気恥ずかしいのか、本人もよく分からない。
 まだ大人になりきれない、けれどもよく鍛えて練られた東堂の身体は、美術館にある端整なブロンズ像のようで、なんだか目のやり場に困る。たかがカチューシャのくせに……よく分からない罵倒を胸に刻みながら、目の毒を隠すべく巻島は乱れた東堂の浴衣を直している最中だ。 同じく乱れたままの自分の姿を東堂はどう思っているか、そこまで気が回らないほど巻島は焦っていた。
 このままでは目の毒が身体の毒となり、明日の勝負に支障を来たす行為を自分から言い出しかねない。そんな真似など肉体的には苦痛だし、精神的にはプライドが軋むではないか。
 手早く浴衣の前を直し、帯をきれいな横向きのちょうちょ結びで縛ってやる。やっと目の毒から開放されて一息つき、巻島が自分の浴衣を直そうと手を伸ばした。
「オレがやってやるよ、巻ちゃん」
 ご満悦の東堂が満足しきった顔で巻島の浴衣を直し始めた。
 むろん、東堂が直した浴衣の帯は、きっちり縦向きちょうちょ結び仕様である。

 この後、隣のベッドを使え来るなあっちへ行けと、さんざんな罵倒にもめげず、東堂は巻島とベッドで同衾権を勝ち取ることとなった。壁際で背中を向けた巻島に、オナモミのようにくっ付いて眠る権利も奪い取る。
 最終的に折れて折れて折れまくってバッキバキになってしまった巻島だったが、それでも疲れからか何とか寝れたようだ。
 それなりに心地よい目覚めだったことが、ひたすら負けた気分になったが。
 明朝チェックアウトに向かう巻島の背後で、使わなかった方のベッドのシーツをこっそり丸めて乱す東堂がいた。ちょっとした証拠隠滅をしておくためだ。
 ツインルームに泊まった男子高校生二人。ここまではホテル側も不審に思ったりしないだろう。だがベッドが片方しか使われてないとしたら、ちょっと恥ずかしい想像をされちゃうかもしれない。
 東堂は巻島さえ居ればそんな余人の妄想は平気だが、エキセントリックな風貌に反して保守的な巻島が、事の顛末を知って羞恥のあまりにのた打ち回らないように気を配っておいたのだ。
 やっぱり気配りの仕方が間違っている。
 ―― オレって、紳士だよなぁ……。
 真の紳士は同衾をおねだりしないと気がつかないまま、名前を呼ばれ慌てて部屋を出る。
 空は快晴だった。
 
 今日はきっと、いい勝負になる。


                               終




 触りっこのくだりは後日オマケで更新します。
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