東堂×巻島

発音しない言葉

 背の高い男の子と、背の低い女の子が手を繋いで歩いている姿が見える。たぶん、巻島や東堂と同じ高校生だろう。春休みの終盤のうららかさに誘われ、健全この上ないデートといったところか。互いしか見えてないような目線と雰囲気は微笑ましくもあるが、同時に鬱陶しいと思う輩も居る。
 微笑ましいカップルに剣呑な視線を送る人種は限られていた。繋ぐ手もなく独り身の辛さが身に沁みる者か、微笑ましく繋ぐ手を永遠に切り離したばかりの失恋者か。
 残念ながら巻島はどちらの事例にも当てはまらなかった。巻島は広義的な意味で独り者ではないし、そのお相手とは失恋する気配すらないくらいだ。
 ……ただ、手を繋いで歩いたり、見詰め合って話したりしたら、世間から不審な目で見られるだけだ。
 ありがちな光景から意識を剥がし、巻島は近くのコンビニで買ったばかりのグラビア雑誌を捲った。蠱惑的な表情と豊満な巨乳が目の中に飛び込んでくる。
 春のうららかな日差しの中、公園のベンチでグラビア雑誌を捲る男子高校生も虚し過ぎてどうかと自覚しているが。
 それもこれも遅刻してくるヤツが悪い。約束の時間は過ぎているのに。
 巻島は早めに待ち合わせ場所に現れるタイプで、待ち人は時間きっかりか、あるいは少々遅れるタイプだ。時間きっかりならともかく、巻島の到着が早い分、相手が遅刻でもするとずいぶん長く待っているように感じてしまう。
 そして今日は、相手が少々遅れてくる日だったらしい。
 山が近い小さな公園で待ち合わせをしたものの、その相手は時間を過ぎてもまだ現れなかった。時間つぶしにグラビアを購入しておいて正解だったようだ。
 たとえ、傍目には侘しい光景だったとしても仕方がないだろう。
 しばらくページを捲っていた巻島の鼓膜に、聞き慣れたブレーキングの音とタイヤの軋みが響いた。
 ……20分、遅いっショ。
 軋ませたタイヤの主が誰か、振り向かなくても分かる。肌という肌、骨という骨、神経がないはずの髪にまで待ち人の気配がぴりぴりと伝わるからだ。
 心はおろか、肌も骨も髪も爪の先まで、こんなにも一人の少年を待ち侘びる自分は絶対どうかしている。
「巻ちゃん、巨乳好きだっけ?」
 背後から聞こえた小生意気そうな声は、なぜか巻島だけには陶然とした甘さを含んで聞こえていた。待ち人の東堂がようやく着いたのだ。
「巨乳が嫌いな男っていないっショ?」
 グラビアの豊満な胸の谷間を指で弾く。東堂の大きな瞳が見開くような気配を見せたのは、ささやかな妬心からだろうか。そんな東堂の様子を見た巻島が、無意識に口の端を吊り上げる。
 巻島の背中越しにグラビアを覗き込み、豊満な谷間に当てられた白い指を弾き出しながら、憮然と東堂は言葉を続けた。本物の胸を触っている訳でないのに、ささやかな嫉妬が擽ったくて笑える。
「オレはちょっと小さめでもイイけどな。……まあ、胸がおっきなコもちっこいコも、オレの方を見てるんだし、胸は問題はないね」
「それは幻覚っショ」
 会うたびにお決まりになった会話を終え、巻島は立ち上がった。
 ……また少し、背が伸びた。東堂と目の高さが微妙に違う。
 一年生の頃は小柄な方だったが、二年生になってから遅れてやって来た成長期は、ぐんぐん巻島の身長を更新し続けている。伸びた身長に見合っただけの体重は、一向に増える気配がないのに、だ。
 去年の暮れに東堂を追い越した身長は、どうやら春に向けてまた成長したらしい。
 知らずに巻島は、薄い背中を丸めて猫背ぎみになってしまった。
 なんとなく ―― なんとなくだが、目の前の少年より目線が高い場所に在るのは嫌だった。
 買ったばかりのグラビア雑誌をディバックに詰め込み、春の日差しを見上げて巻島は口を開く。日差しの向こうには小高い山の頂上があった。
「今日はあの山っショ?」
「そう! オレと巻ちゃんの勝負の山だ! 今日こそは巻ちゃんにオレの後塵を走らせてやるからな!」
「登る前からそのテンション、ムダ体力だと思わなァイの?」
 よくもまあ、終日この躁状態を維持できるものだと感心する。そんな巻島は表情が欝だと言われるが。
「じゃあ、行くっショ」 
 靴も履き替えなければならないし、山を登るには荷物も邪魔だ。荷物をコインロッカーに預けるため、巻島はベンチに立てかけていた自身のロードバイクに手を掛けた。
 無機質なはずのロードバイクが温かく感じるのは、春の陽気のせいだけではない。傍らで同じようにロードバイクを手押しする少年の存在があるからだ。
「じゃあ、その邪魔な荷物をどっかに預けないと」
 ロードバイクを跨ぎ、今にも全力で走り出しそうな東堂に苦笑で応え、巻島も細長い身体をロードバイクに預けた。
 ひと漕ぎするだけで気分が高揚する。不思議な乗り物だ、このロードバイクというものは。
 走り出して隣を見ると、ただでさえ高いテンションをさらに上げた東堂が居る。屈託のない晴れやかな顔は、きれいにラッピングされたプレゼントを貰った子供そっくりだった。もっとも表情に出ないだけで、巻島の気持ちも似たようなものだが。
 春の風を裂いて走り出す二台のロードバイク。その速さに驚く人間も多いが、まだまだここは平地だ。平たい道では二台のロードバイクが本気で走るはずがなく、ただ真剣勝負ができる場所へ移動しているだけだった。
 ここは違う。ここでは本気になれない。ここ程度で心の底から楽しめない。
 本気になる場所は険しい斜度がある、峻厳な山の神が住む場所にこそ在るのだ。
 並んで走りながら何気ない会話や動作の中で、二人とも相手のコンディションを探り始めている。コンディション不足では山に入っても楽しめない、と。
「そういや、今度入るウチの一年にも、山が得意なヤツが居るって話だぜ? オレと被っちまうなー」
「ああ、東堂がレギュラー落ち? それはご愁傷様じゃなァイの」
 ニヤリと笑うと猫の尾が膨らむみたいに東堂が憤る。
「失敬だぞ巻ちゃん! いかん。いかんよ、その認識は! オレが一年ごときに負けるはずがねえだろ! 今までオレのドコのナニを見てきたんだよ!」
 言われて巻島は、走りながら東堂を上から下まで値踏みしつつ眺めた。爪先まで落ちた視線は一気に頭頂部へ駆け戻る。
「……んー……カチューシャ?」
 東堂が露骨に後ろに下がった。数秒後、思い直したようにまた前に出て追い越して行く。
「あのさ……巻ちゃん? 切れたトークとか美形ぶりとか、もっと見所盛りだくさんな男よ、オレ?」
「よく見た答えっショ?」
「巻ちゃんは今日、山から下りたら眼科へ行くべきだな」
 互いに応酬する軽口も、山に入ればそれさえ勝負色が強くなる。だが平地ではまだ会話を楽しむ余裕があった。
 ふーっと溜め息をついて、わざとらしく背中でしょげた東堂から視線を外す。その先に視界をちらりと掠めるものがあった。真新しい記憶の隅にあった光景と符合した姿に、思わず巻島が小首を傾げてしまう。
 歩道を並んで歩く人影だった。背の高い男の子と、背の低い女の子の、あの微笑ましいカップルだ。
 先刻と同じように手を繋ぎ、互いの顔を見て話す二人の脇を、車道から二台のロードバイクが追い抜いていく。抜き去り際、巻島は先刻まで二人に感じた鬱陶しい思いがなくなっていることに気づいていた。
 ああ、そうか、と。巻島は苦笑する。
 ああ、そうか。
 ―― 少し、羨ましかった。
 ―― 走り出すロードバイクが一台きりだったときは。 
 手を繋ぐわけでもない。
 指を絡めるわけでもない。
 目を見て思いを囁く合うこともない。
 野郎二人が昼日中、そんな真似をしようものなら、春の陽気で頭が温かくなったかと言われて終わりだ。何気ないことを何気なくできる、先刻まではそんな行為に、多少の羨望と嫉妬があったのかもしれない。
 それでも。
 アスファルトを噛むタイヤが軋る。山に向かってペダルが回る。速度を上げて前に居た少年を追い越す。山までの車道は平等に体力を温存するため、こうして入れ替わりながら進んでいた。取り決めもなにもない暗黙の了解だった。言わなくても向こうは分かるし、向こうが言わなくても巻島には分かる。
 山に入れば遠慮なく、どちらが先に山頂に到達するのか、激しく競い合うことも。

 巻島はペダルを回した。
 自分は人付き合いが苦手で、東堂のように他人とうまく話せない不器用な人間だ。そして不器用なりに努力して理解を得ようとするタイプでもない。
 分かる人だけ分かってくれればいいのだ。
 排他的かもしれないが、ペダルを回して自分を表現し、その意思を汲み取ってきれた者は何人も居る。今の巻島には彼らだけで充分だった。
 そして何よりも、山でいちばん気持ちのいい会話を交わしてくれる相手がいる。
 いちばん大事な思いは山でなら伝わる。


 それで、充分だった。



                               終