東堂×巻島

サビシイ カラダ サミシイ ココロ

 巻島の身体は寂しい。
 白い肌が薄闇へ滲んだ輪郭を浮かび上がらせるたび、東堂はそんな事を思う。
 巻島は、寂しい。


 かすかなスプリングの軋みで目が覚めた。常夜灯のお陰でおぼろげな薄闇はすぐに目が慣れる。瞬く間に辺りの状況が理解できた。
 自分の顔を跨いで向こう側に置かれた細い腕や、珍しく乱れたままの髪が肌に絡む姿、それらが視界の中いっぱいに広がる。
 すこし、呼吸が乱れた。
 顔の真上を横切った腕の白さや細さが、とても寂しい気がしたからだ。
 潜めたつもりの呼吸でも、静寂の中では簡単に巻島の鼓膜に届いてしまったらしく、東堂の顔の上にあった白い上半身がぴたりと止まった。扉を捕らえていたはずの瞳が下に落ち、ぽっかり開いた東堂の双眸を覗き込んでくる。
「……もしかして、起こした?」
「いーや、起きてたね」
 嘘だった。本当は寝ていた。
 わずかな気配でも覚めてしまうような、浅い浅い眠りだったけれど。
「巻ちゃんは?」
「喉、渇いたっショ」
 片腕だけ東堂の向こう側に置き、寝ていたはずの男を覆った格好で呟く。巻島は下顎を人差し指で掻きながら、苦味の勝る笑みを薄い唇からこぼす。相手を起こさないように気遣ったはずが失敗し、急に気恥ずかしくなったのかもしれない。
 もっとも仕方がない話だ。ひとつのベッドで壁側に巻島が、外側に東堂がどっしりと寝ていれば、東堂の体を乗り越えない限り、巻島はベッドから下りることさえ叶わない体勢だった。今の巻島は四つに這った状態で胴体は東堂の上空にあり、いかに東堂を起こさないようにそろりと這い出していたのか分かる。
 やっぱり巻島を壁際に追いやって正解だと思った。
 下から見上げた巻島の裸身は、細長い腕を隠す衣服がないせいか、骨組みの寂しさがやたらと際立って見えた。痩せているというより、巻島は骨格自体が細い。寂しい骨についた筋肉はいくら鍛えても、やっぱりどこか寂しさが拭えない気がした。
 そしてそれは巻島裕介いう人間の本質そのものを示している。
 生きることに不器用な、巻島という寂しい人間を。
 巻島が起きているときには自分も起きていたいと思うのは、こんな姿を見てしまったときだ。この寂しい生き物を、できる限り目の届く範囲で見ていたかった。
気遣いの相手が目を覚まし、もはや気遣いは不要と感じたのか、巻島の身体が大きく揺らいで起き上がろうとする。白い腕の動きを察知し、慌ててその二の腕を掴んだ。
 白い色素を詰めた肌は、魚の腹のように冷たく柔らかなのでないかと錯覚させる。だが五指を食い込ませた肌は奇妙に暖かく、見た目には表れない筋肉の質感は固くさえあった。
「なに?」
 首を傾げたことで緑の毛先が落ち、悲しいくらいに浮いた鎖骨の窪みへ落ちる。それさえも寂しい風情だと思った。
「オレも喉が渇いたから、ついでにオレが巻ちゃんの分も取ってきてやるよ」
 薄い身体を押し戻すようにして起き上がり、虚をつかれた唇が何か言い出す前にさっさとベッドから下りる。東堂は巻島の不器用な性格は、誰より心得ているつもりだ。
 人付き合いが苦手な彼は、相手が強引な行動に出ると自分を引いてしまうところがある。山でのコースの取り合いなら恐ろしく攻撃的なくせに、人間同士の付き合いになると途端に守勢に回ってしまうのだ。
 もっとも巻島本人が欠点だと思っているその性格は、東堂にしてみれば美点なのだが。
 たやすく押し切れる性格は、今回も自らの主張には消極的だった。部屋を他人に弄られるのは嫌いなくせに、東堂の行動をすんなり許してしまう。何度か泊まったことがある巻島の部屋の様子はよく知っていた。愛息への情愛の深さを感じる広い部屋には、小さな冷蔵庫まで備え付けてあって実に至れり尽くせりだ。
 一人用の小さな冷蔵庫から水とスポーツ飲料の入ったペットボトルを取り出し、冷蔵庫で冷やす必要のないストローを一本引き抜いてベッドへと戻った。
 行動を制限された巻島はベッドの上に起き上がっていた。膝を抱えるような格好で生まれた背中の丸みと、窮屈そうに折り曲げた長い手足がなんだか哀れに見える。
 ああ、本当に寂しい身体だ。
 歩み寄る足を不意に止めて東堂は思った。
 肉付きの薄い身体が寂しいのか、巻島がずっと寂しい心を持っていたから、釣られて身体まで寂しくなったのか。
 気配に気づいた白い顔がこちらを振り向く。乱れた髪を手櫛で梳きながら、足を止めた姿を怪訝そうな顔で窺っていた。何事かと問いかける言葉はなかった。
 喉が渇いていても飲み物を手にした東堂を急かさず、ただ静かに窺う受動的な様子が巻島らしいと感じる。もともと巻島は人付き合いが得意ではない。印象深い派手な容姿のくせに、性格は控えめを通り越して陰に篭もりがちだ。人に囲まれることが好きで、目立つことはさらに大好きな東堂とはどこまでも対極な存在だった。普通に生活をしていれば、東堂の交友範囲には含まれないタイプだろう。
 山の神の、気まぐれな引き合わせがなければ。
 まあ、神様なんてものは、往々にして気まぐれに人間を翻弄するものだが。苦笑いを押し殺しながら東堂はベッドの端に座り、やっと手にしていたスポーツ飲料を手渡した。
「巻ちゃんさあ、なんでストローまで冷やしてんの?」
 ペットボトルと一緒にストローを受け取った巻島が、下顎を引いて返答に詰まる。
「べ、別にいいっショ……近い場所にあった方が便利っショ」
「そうかもしれんね」
 東堂が知っている限り、巻島のストロー設置ポイントは冷蔵庫以外に二カ所もある。部屋の広さに比例して設置したのか、そこまでしてストローを使いたいのか謎だが、深く突っ込むと拗ねかねないのでこの辺で止めておく。
 手渡したペットボトルの口を切る巻島の隣で、同じようにミネラルウォーターの蓋を開け冷たい中身を口に含む。喉が渇いたと言ったのは、寂しい身体をベッドから逃がしたくないための口実だったが、含んだ水はひどく旨かった。口腔から喉に抜ける甘露に、実は自分も喉が渇いていたのだと気がつく。
 しばらくは乾いた身体に水分を補給する音だけが響いていた。
 あっという間に500mlを体内に納めた東堂が後ろを振り返った。ベッドの端に腰掛けたままでは背後の巻島が見えなくて目が寂しがってしまう。
 寂しい身体がないと目が寂しがるなんて皮肉な話だ。
 空になったペットボトルをサイドテーブルに置き、もそもそとベッドへ這い戻った。
 ベッドから少し離れた場所に客布団が敷かれていたが、どうやら今日も客布団を使わない状況になるようだ。いつも巻島のセミダブルベッドに同衾してしまうためだが、これからはコトが終われば客布団の方に寝るようにした方がいいだろう。使われないままのシーツでは、巻島家の奥様かお手伝いさんが何を思うか分からない。
 ……まあ、巻ちゃんはそこまで気づいてないだろうけど。
 気づかせない方が賢明だなと、ベッドヘッドと白い背中の間に潜り込みながらひっそりと心で呟く。ストローから口を離し、わざわざ狭い場所へ移動する男を胡散臭そうに見る顔には、神経質な性格が垣間見えるようだ。ナイーブな神経が使われない客布団の意味を悟りでもしたら、巻島家へ出入り禁止令が施行されてしまうのは確実だった。
「……狭いショ」
 ベッドヘッドと背中の間に収まった東堂に対する声は少し尖っていた。
「いや、ここがベストポジションだよ、巻ちゃん」
「は? こんな狭いところが?」
 ハムスターか、お前は……そんな声を無視して背中ごと白く寂しい身体を抱きしめる。驚きで竦んだ肩甲骨と肩甲骨の隙間に頬をくっつけた。
「いや、ココ。ココの窪みはベストだとオレは思うね」
 巻島の背骨を枕に東堂がひっそりと笑った。
「ふざけたこと……ッ!?」
 肩甲骨の隙間に頬を埋めたままでも、抱き締めた身体の戦慄きが分かった。もちろん東堂は戦慄きの発信元を知っている。
 内臓なんて詰まってなさそうな薄い腹。その腹の中身を確かめるようにして掌を撫で下ろす。
「と、東堂……っ」
 ちゃぷんと飲みかけのスポーツ飲料が、巻島の手の中で揺れた。ペットボトルの中身は半分近く残っている。
「あー、巻ちゃん、こぼさないように気をつけないと。水と違ってベタベタするしさ」
「だったら、離すショ!」
「やだね。断る」
 断言されて二の句が継げない巻島の下腹を何度も撫でた。
 ことさら白い皮膚と、硬い筋肉の感触。見た目の寂しさに反して、細いなりに鍛えられた薄い肉は、きっともっと深い部分にある本当の寂しさを隠すためなのだろう。

 寂しい、身体。
 寂しい、巻島。

 巻島は寂しい男だった。
 優しいのに不器用で、いつだって言葉の数が少ない。たとえ言葉の数が少なくても、どうにか隙間を埋めて自分を理解して貰えるための努力を、とうの昔に放棄したようにも見えた。
 地元の名士と呼ばれ大きな家に住む子供を、ちいさな子供社会が受け入れなかったせいかもしれないし、自分の中の確信を否定され続けてきたせいかもしれない。そんな17年間のことなど東堂にはどうでもよかった。
 理解することもされることも止めてしまった子供は、長じてからペダルを回す姿で内面の理解を得ようとした。おそらくそんなやり方では理解者など今でも少ないはずだ。理解を得る前提からして入り口が狭すぎる。
 だからこそ、巻島は寂しいのだと思う。体つきはもちろん、心さえ。
 本人がその寂しさに気づいていても、いなくても。
 ちゃぷん、ちゃぷんと、すべて満たされない巻島の寂しさのように、ペットボトルの液体は揺れ続ける。容器に液体が満タンに詰まっていれば、あれほど揺れ動かないだろうに。容器の隙間にさえ、空虚な寂しさを感じないだろうに。

 ああ、と、東堂の呼気は白い肌にじわりと染み込んだ。
 下腹を撫でていた指はさらに沈み、柔らかな下生えへと辿り着いた。肌との境目を指の腹で丁寧に撫でれば緑の頭は力なく俯いてしまう。
「巻ちゃん、もう一回やろうぜ?」
 頬や密着した身体から、びくびくとふるえる肌の蠢きが分かった。
「それとも嫌か?」
 きっと、巻島は許してくれる。
 東堂が、わざと寂しそうな声を出せば、きっと許してくれる。
 寂しい心は、寂しい音に敏感なのだ。
「……別、に……」
 小声がすぐ夜に溶けた。だがその声はきちんと東堂の鼓膜へ健気に到着する。
 了承を得て指は下生えの中にするりと潜り込んだ。萎えた肉の茎に指を絡めながら、東堂は小さな声で囁いた。
「ごめんよ、巻ちゃん」
 ごめん。
 ごめん。
 本当に、ごめん。
「……素直に謝るなら、最初っから仕掛けなきゃいいショ」
 東堂の素直な言葉に寂しい身体から、わずかしか残っていなかった抗いの意志が抜け落ちた。
 きっと巻島は誤解しているだろう。ごめんと言った言葉が、ただの劣情に誘われた謝罪だと。
 だから巻島は誤解したままでいい。ごめんと言った言葉が、ただの身勝手で寂しい贖罪だと。

 ずっと知らなくていいのだ。


 巻島は優しくて不器用で、寂しい人だった。
 自分の心を伝える手段をろくに知らず、理解される方法はペダルを回すことしか分からない。巻島を理解する人間はわずかだ。わずかな人間の中にはもちろん東堂も勘定されているが、その一括りの中でも、いちばん巻島を理解できているのは自分だと自負している。
 山と坂とペダル。巻島を理解できる最高の手段を、東堂はすべて揃えていた。
 破れそうに膨らむ肺と心臓、石のように硬くなる腿や脹脛、目に入る汗の痛みと呼吸で焼ける喉、蝋を塗り込めたように強張る皮膚の感触。
 苦行に近い精神は研ぎ澄まされ、頂上を目指して直向に登り続ける。
 その中でしか巻島を理解できないし、その中だからこそ巻島は理解してくれた人間に手を伸ばすのだ。
 誰にも伸ばした手を握らせたくはなかった。掴んだ手を握り返すのは、巻島を理解できる自分の特権だった。
 巻島は、寂しい。だが、寂しいままでも構わない。
 寂しいままなら、巻島を理解する頂上にいちばん早く登って制覇できるのは、自分自身だと分かっていたからだ。

 寂しい。
 とても、寂しいことだ。


 本当に寂しいのは巻島の身体や生き方ではなく、ただ、ただ、巻島の寂しさを願う、自分の歪んだ心だ。


                                 終