6月27日無料配布ペーパー・東巻

凌霄花 -ノウゼンカズラ-

 どこまでも澄んだ、高く、青い夏の空。
 とかく夏の花は鮮やかで生命力に満ちたものが多い。
 青空にハレーションを起こしそうな、百日も紅を咲かせ続けるサルスベリ。魂の花と言われる真紅のブーゲンビリア。弥生時代から二千年の時を経て発芽したハスの花。
 そして太陽に挑み続けるヒマワリ。
 巻島は東堂という明るく健やかな存在を、ずっとヒマワリの花のようだと思っていた。
 夏の激しい太陽に臆することもなく、太い茎で地面に踏ん張る姿は、身も心も強靭につくられた彼の性質そのものではないか、と。
 印象深い華やかな風合いも、大輪の花も、なにもかもが東堂尽八という少年にふさわしい。
 そんな生命力にあふれた夏の花が咲く、高校生活最後の夏に見た光景があった。最後の勝負まで一ヶ月を切ったころ、巻島は最後の調整を兼ねて東堂と勾配が厳しくない山を登っていた。
 これはインターハイ前の調整だ。箱根なみの勾配を持つ山で競い、調整そのものが崩れては話にならない。
 それでも山と坂と勝負の名のつくもので、東堂の背中を拝するのは嫌だったし、同じくらい山にプライドを持つ東堂もそれは同じだろう。山の勾配がどうあれ、「登る」、この一点に関して譲る性分は互いに持ち合わせていなかった。
 山頂のゴールまでわずか数百メートル。だがいちばんきついのはこの残り数百メートルだ。
 逃げ水さえ揺らぐ暑気の中、噴出す汗を滝のように流し、張り詰めて重くなった筋肉を鼓舞してペダルを回し続ける。
 勝つ。勝ちたい。勝たなくては。
 東堂に勝つ。
 巻島に勝つ。
 もはやその思いは本能にすら近いのだ。
 すべての音が己の鼓動とチェーンの回転音にかき消され、山頂か、あるいはどちらかの背中を睨む瞳からは、いつもあらゆる風景が色なくしていく。山頂と東堂以外、巻島の双眸から鮮やかな色が消えた状態で、ふいにそれは目の端に飛び込んできた。
 ヒマワリの黄色ではない。ブーゲンビリアの赤色でもない。その二つを混じり合わせたような……橙色。
 鮮やかな橙色が視界を過ぎり、わずかにその色に気をとられた巻島は東堂の先行を許してしまっていた。山頂までは百メートルもなく、開いた距離は最後まで埋まることはなかった。
「今日はオレの勝ちだ、巻ちゃん!」
 前輪が山頂を越えた瞬間、東堂は晴れやかに快哉を叫んで巻島に指を突きつけた。


 得意そうに勝利に胸を張る東堂を適当にいなし、鼓動が落ち着いた途端に巻島は自分の自転車に跨った。訝しげに小首を傾げるオレンジ色のカチューシャに視線を固定しながら、登坂中に目をかすめた色に気をとられた理由に得心する。あの色は常に東堂の頭部を飾るカチューシャの色によく似ていたのだ。
「ワリィ、ちょっと気になることがあるっショ。すぐ戻るから、お前はここで休んでいるっショ」
「はあ? なに言って……って、巻ちゃん、巻ちゃん、巻ちゃあん?」
 東堂の尖った声も気にならないくらい、巻島は登ったばかりの坂を下っていく。登るまでは時間がかかっても、下ってしまえば目的地まではあっと言う間だ。
 ゆるいカーブを描く道の縁に自転車を寄せる。落盤を防ぐためか、一部をコンクリートの壁で覆われた山の壁に、それは鮮やかな色をいくつも蓄えて咲き誇っていた。
 ノウゼンカズラだ。
 壁伝いに鬱蒼と繁る花の量にまず驚いた。剪定と手入れがなされたノウゼンカズラなら塀や壁に彩られる姿を見てきたが、濃い緑を広げて山野に花を咲かす状態を見たのは初めてだった。
 どうしてこんな山の中にと巻島は思ったが、そもそもノウゼンカズラは樹勢が強く容易に株分れして繁殖する花だ。樹齢も何百年と長い丈夫な植物なのだ。
 遠めにも圧倒された橙色の花は、そばに寄ればさらに鮮やかに、生命力を押し付けるがごとく巻島に覆いかぶさる。樹木の陰になった路面には、いくつもの花の死骸が、鮮やかな色を失うことなく零れ落ちていた。
 太陽に焼かれたアスファルトと緑の匂いが混じってくらくらする。ああ、これは、東堂だ。東堂の花だ。
 夏にくじけず美しく咲き誇り、艶やかな姿で目を惹き、そして最後はツバキの花と同様に美しいままの死骸をさらす……東堂だ。
 知らずに自転車から降りていた。夏の花。夏の中でしか生きられない、花。
 東堂も、そして自分も、この花さながらにもう寿命が尽きようとしていると気が付きながら。
 夏の花。夏だけの花。
 まるで、夏の大会ですべてが終わってしまう、自分たちのように。
 高い剛性を持つクリートの靴底が路面を踏んだ。そのまま数歩ほど進み、路面に美しくも無残に散った花を踏み躙る。
 こんな花の屍は見たくはなかった。せめて萎れて醜く枯れ落ちればいいのに、橙色の花は美妙な姿を保ったまま死骸を晒しているのだ。それが、苦しい。
 東堂に似た花。東堂そのもの花。夏が過ぎれば消える死骸は、あまりにも美し過ぎた。
 最後の勝負は刻一刻と近づいてくる。今年の夏が終われば、もう東堂と登坂することも、勝負の結果に血肉を沸き躍らせることも無くなってしまうのだろうか。
 ただ一人、夏の終わりに東堂だけが美しい屍を晒して。

 夏が、勝負が、東堂との日々は終わってしまうのか。

 「巻ちゃん、花を踏んじゃイカンよ」
 背後からの苦笑まじりの声に驚いて振り向いた。巻島を追ってきたのか、自転車を降りた東堂が、足元と奇矯な表情を浮かべた巻島の顔を交互に見ながら近づいてくる。
「……もう、落ちた花っショ」
 花の色に似た頭部のカチューシャから視線を逸らし、いたずらを見咎められた気がして俯いてしまう。
「でも、きれいだと思わんかね?」
 きれいだ。死骸となってもきれいな花だ。
 お前と同じように。
 でも自分はこんなきれいな死骸になれない。未練もなにもなく、美しいまま落ちる花になれっこないのだ。
 夏が終われば、インターハイが終了すれば、お前に未練を残して無様な死骸を晒しかねない。
「この花はオレもよく見るよ。名前は知らんがね。でも毎年同じ場所で見る花だ」
 東堂が薄い巻島の胸を軽く押した。鮮やかな花を踏み越えながら、暑気で燻されたコンクリートの壁に背中を押し付けられる。
「と、東堂!」
 自信にあふれた花の顔が巻島に近づいてきた。呼吸が止まる。
「ここ、道……」
「誰も来んね、こんな辺鄙なとこ。仮に人が来ても気にしなければいい」
 頭上には花の群れがあり、背中は熱かった。もちろん、頬も唇も熱い。
 唇が触れる。
 わずかな時間で唇は離れたが、髪に絡む東堂の指は離れてくれなかった。
 巻島の髪を弄りながら真摯な黒瞳に意識が奪われる
「巻ちゃんの髪は色も蔦みたいに絡まるところも、この花の葉っぱみたいだな」
 ノウゼンカズラの花の男が、ノウゼンカズラ緑の男に触れていた。
「なあ、巻ちゃん。この花は毎年見ると思わんかね? つまりは毎年同じ場所で、同じように咲く花ということだ」
 だからどうしたと言いたかった。だが言葉は先に東堂に切られてしまう。

 「だからこの花は咲くよ。来年も、再来年も、夏が来れば、咲く。そう簡単に終わらせんよ」



                                  終