東巻

七月、そして八月

 空が青かった。
 蝋が原料の子供用クレヨンを使い、画用紙を青一色で塗りつぶせばこんな空になるだろうか。
 単純な色合成しかできないクレヨンの青はそれだからこそ、どこまでも澄んだ青空にふさわしいとも思う。
 誇りでもある自身のレギュラージャージもこんな色を含んでいた。空の色は東堂にとっても近しい色だ。近頃では二番目に好きな色だった。好きな色の筆頭が、ここ一年あまりで翠と言うか、玉虫色になってしまった事実が我ながらどうなのかと感じていたが。
 夏の高く青い空が目に沁みる。
 木陰から夏の空を眺めながら、無意識に携帯電話を取り出し、無意識だった事実に苦笑いしながら、今度は意識を明確に示して発信履歴をリダイヤルする。
 ―― いま、部活中かもしれんね。
 青い空を眺めながら、否、と考えを改める。今日のこの日にハードな練習をしているはずがない。身体を休めているか、あるいは軽い調整か、せいぜいその程度でしかないはずだった。
 なぜなら七月は今日で終わりなのだ。明日からは八月……それは東堂と、ただ今コール中の相手にも、カレンダーの月が変わる意味だけを含んではいなかった。
 七月三十一日が過ぎれば八月一日。
 明日になればインターハイの開会式を迎えるのだ。
 まるで狙ったように七回目のコール音が途切れ、代わりにぶっきらぼうな声が東堂の鼓膜に届いた。
「……なんショ?」
「いや巻ちゃん、せめてもしもしとか言おうよ、そこは」
 対人スキルが極めて低い通話中の玉虫色の髪を持つ相手は、今日も元気に不機嫌だった。
 青い空によく映える彼の玉虫の髪が好きだ。自分の前で、隣で、あるいは後ろで、左右に大きく振られる髪の色が。
 八月一日の明日になれば、その髪を青空の下で見ることができるのだ。高校生活最後の、集大成とも言えるインターハイのクライム勝負で。
「……ミネラルは取ってる。寝冷えもしてない。髪も拭いてる……まだなんかあるっショ?」
 早々と先手を打たれ、目前に不機嫌を絵に描いたような白い顔が現れた気がした。
「あー、髪は大事だな、巻ちゃん」
「なぜソコに食いつくっショ」
 それは明日の山で拝みたいからだと素直に言えなかった。言えば問答無用で電話を切られて着信拒否の刑だ。
 さて困った。口下手な相手ではなく、口から生まれたおしゃべり君と新開に言わせしめた東堂の方が、どうしたことか今は言葉に詰まっている。一昨日まではそれこそ母親どころか、ねちねちした姑なみに体調はどうだ調子はいいかちゃんと整えろと電話家メールで諫言していたのに。
 滅多にない沈黙を不審に思ったのだろう。一呼吸のあと「どうした?」と気遣われてしまった。こんな口調は滅多にないのに、レアな声を録音し損ねたと悔やみながら、口からは頭を裏切ってまったく違う言葉が溢れ出た。
「あんまりアイスばっかり食っていたらイカンよ、巻ちゃん」
 つい最近の電話口で聞いた、氷菓を噛み砕く爽やかな音を忘れられない。あれはアイスキャンディーの定番中の定番、ガリガリ君だったと東堂は推測している。お金持ちのくせに変なところで庶民的な男だ。
 数日前まではたくさんあった言うべき言葉も、最後の勝負を明日に控えしまうと、急になにも言えなくなっていた。それこそ遠まわしにアイスで身体を冷やすなと伝えるくらいか。
「……なあ、巻ちゃん」
「……なんショ?」

 今日は七月三十一日だ。
 明日は八月一日だ。

「サーティワンアイスってさ、三十一日分の味があるって知ってた? 一日一回食べても違う味が三十一日ぶんあるって」
「だからその店名っショ」
「そうそう。この前サーティワンで食ったアイスが巻ちゃんみたいだったと思ってね」
「……はあ?」
 素っ頓狂な声を気にせず、記憶の中のアイスを思い起こす。
「緑色のアイスでさ、赤とか深緑のキャンディの粒が入っていてさ……このキャンディが曲者で、口の中でパチパチ弾けるのだよ」
 溜め息が千葉から箱根に電気信号となって届いた。
「ただ甘いだけじゃないところが巻ちゃんアイスだと思わんかね?」
「思うか、バカ。そんな名前のアイスはサーティワンにないっショ」
 正しくはポッピングシャワーという名のフレーバーだった。食感の面白さから女子高生に人気があるフレーバーだ。
 考えてみれば、ポッピングシャワーを勧めてくれたのは東堂ファンクラブの女の子ではなかったか。
「今度サーティワンに一緒に行こうじゃないか」
「……今度っていつだヨ」
「夏が終わったら」

 夏が終わったら。
 明日の勝負が終わったら。
 最後の夏で決着をつけたら。

「……それもいいかもな……」
 電話口の声はやさしさとさみしさが半々だった。その成分が分かったのは、東堂だって同じ口調だったからだ。
 今日は七月三十一日で、明日は八月一日で、そして最後の日だ。
「じゃあアイスはキングサイズのトリプルで行こうぜ、巻ちゃん」
「ハラぁ壊すなヨ?」
「美形は腹を下さないイキモノなのだよ?」
「いつの時代のアイドルだ」
「古今東西美形はアイドルと相場決まっているだろうが」
「そんな相場は大恐慌でなくなればいいっショ」
 そうやって笑いながらくだらない話をした。最後まで二人とも明日の話はしなかった。
 できないままだった。

 今日で、七月が終わる。
 明日は、八月が始まる。

 そして最後の夏と、最後のインターハイ。


                                終