東巻

夏祭り

 やられた。
 やられた
 巻島の表情にはくっきりとその四文字が浮んでいた。反対に東堂は、いたずらが成功した子供みたいにニンマリと笑っている。
「……汚いっショ、東堂……」
「やだなあ、巻ちゃん。そんなことを言ってはならんよ。せっかくの浴衣美人が台無しだ」
 浴衣美人。その一言で巻島のこめかみに青筋が浮かんだ。……ああ、勿体ないな、よく似合っているのに。東堂は巻島の爪先から頭のてっぺんまで鑑賞しながら心の中で呟く。
 木目絞りの浴衣生地は淡い藍が基調で、巻島の髪の色と実によく似合っていた。正直、蛍光色だの女子力満載で大輪の花柄模様の浴衣だの、そんなトンデモセンスを発揮されたらどうしようかと冷や冷やだったが、どうやら杞憂で済んだようだ。
 もっとも安っぽさが窺えない浴衣姿は、さすが巻島家の令息だと感心した。巻島の着ている木目絞りの浴衣が、量販店で売っている格安セット品ではないと東堂にも分かる代物だ。藍色の生地には風格があり、帯もポリエステル製のような安価な感じはしなかった。木綿か正絹の角帯はちゃんと貝の口に結ばれていて、ワンタッチ式の帯とは雰囲気が違う。
 しかし眼福だ。着物が似合わない体型かと思いきや、逆に線の細さと髪の風合いが艶めいたものを醸し出しているではないか。暑さ対策か、髪を後ろで結わえているのもたいへん宜しい。注文をつけるとしたら、髪はもっと高い位置で結わえてうなじを出してみてはどうだろう? いやいや待て待て尽八。巻ちゃんのうなじを世間にひけらかすのはもったいない。あれはオレの特等鑑賞席で……。
「あ、あれ? 巻ちゃん巻ちゃんどこ行くんだい? 巻ちゃあぁぁん?」
 踵を返す巻島の腕を慌てて掴む。むっつりした声が完全にへそを曲げていた。
「オレを騙したっショ」
「騙したとは心外だな、巻ちゃん! オレは巻ちゃんをちっとも騙してないぞ!」
 そう。東堂は巻島を騙してなどいなかった。ただ意図的に言葉の数を減らしてみただけだ。
 ―― 花火大会に合わせて祭りの屋台が出るんだ。せっかくだから和装で遊びにいこうぜ、巻ちゃん!
 東堂が言った言葉はこれだけだった。嘘偽りのない言葉だ。ただ巻島が和装の一言に対し浴衣を連想させるだろうなと予測した上で、自分は浴衣ではなく甚平をセレクトしただけなのだ。
「これだって和装だぞ? 嘘じゃないぞ?」
「それはそうだけど……お前、こうなることを分かっていたっショ」
 ビンゴ! と、サムズアップで言えるわけがなかった。言えば巻島のへそは有り得ない方向にねじくれるだろう。曲がった巻島のへそを修正すべく、邪気のない顔で笑って言葉だけは否定する。
 本音は、だって夏だし祭りだし巻ちゃんの浴衣姿のひとつも見たいじゃないか……だったが。
「勘違いさせたお詫びに巻ちゃんに奢るよ? なにがいいかね? リンゴアメとかワタアメとか……チョコバナナだけは、けしからんからダメだぞ!」
 陽気に巻島の手首を掴んで人ごみの中へ突入する。巻島はまだアレコレ言っていたが、賑やかな喧騒と派手な電飾を推進力に、祭り男の真価を発揮した東堂には適うべくもなかった。
 気を許せばあっという間に迷子になりかねない人出に、巻島も子供っぽく拗ねる様子を控えて不承不承うしろに着いてきた。
「花火まではまだ時間があるからな。屋台でなにか食べようぜ? なにがいい、巻ちゃん?」
 言われても巻島は控えめに視線を周囲に走らせるだけで、要求を口にしない。まだ拗ねているのかと訝しんだが、今の巻島は拗ねているというより身の置き所がないといった感じだ。なんだか雑然とした屋台に気後れしているようにも見える。
「……あのさ、巻ちゃん……。ひょっとして、祭りとか屋台とか、あんまり経験ない?」
 尖った下顎がぐっと引かれてしまう。図星か。
「マジか巻ちゃん!? 祭りとか行かなかったのか?」
「行った! 行ったっショ! 行ったけど……屋台の食べ物は衛生的じゃないって親が……」
「過保護だな」
 ずばりと言われ巻島は怯む。また盛大にへそを曲げる気配を感じ、慌てて近くにあったたこ焼きの屋台に飛び込んだ。
「おっちゃん、たこ焼きいっこな。爪楊枝は二本で」
「なんだウチのたこ焼きは四国一だぜ? そっちの派手なにーちゃんにももうワンパック食わしてやれよ」
「四国一って微妙なラインだと思わんか、おっちゃん? しかも関東で四国一とはコレいかに?」
「おっちゃんのたこ焼きは態度や営業方針はもちろん、タコの大きさも控えめなんだよ、にーちゃん」
「……タコが控えめなのはならんだろう……」
 笑い合いながら東堂が金を払い、四国一のたこ焼きを受け取る。
「よし、食おう、巻ちゃん」
「ここでか?」
 人ごみの中で佇立した巻島が瞠目した。
 巻島の立ち姿に、「うむ。人の中でも巻ちゃんの浴衣姿がいちばんだな」と感じ入る。本人が聞けば東堂のアヒル口を摘んで「この口か。この口が言うか」と攻撃しかねない考えをさらりと隠し、ふたりで沿道の端に寄った。
「確かに道の真ん中はいかんな。いくらオレたちが道でモノを食うことに慣れていてもイカンよ」
 正確には道を走る自転車の上だが。
 まごつく浴衣姿を尻目に東堂が形が歪なたこ焼きに爪楊枝を刺し、「あーん」と声を出して巻島の顔へそれを近づける。四国一のわりに形がイマイチだ。
「……ちょっ、東堂……ッ!」
 歪なたこ焼きを前に巻島の眉間の皺が深まり、照れか怒りか頬には朱が走ってしまう。うぶだなー、巻ちゃん。……たこ焼きを手にした東堂はご満悦だった。この場合、巻島がうぶというよりも、巻島の方が常識に長けているだけの話だが。
「じ、自分で食べるっショ」
 もう一本あった爪楊枝を取り、東堂の「あーん攻撃」から逃れるために自分でたこ焼きを口に運ぶ。
「うまい?」
「……まぁまぁっショ」
 むしろ気に入ったのか、二つ三つと手を伸ばす巻島に東堂の機嫌は絶好調だった。巻島は「まずい」とは言わなかった。それがどんな意味かきっと巻島は理解していない。
 ソースはしょっぱすぎるし、生地は水が多すぎるのか、ふっくらというよりべっちゃりだ。ネギもキャベツも申し訳程度で、あろうことか、たこ焼きなのにタコが入っていない本末転倒なはずれ小麦粉焼きがある始末。本来なら口が奢っているはずの巻島が「うまい」と思うわけがないのだ。
 それ、なのに。
「巻ちゃん、そろそろ花火が始まるな! わくわくするな! 花火は真下で見るのが作法だ! 急ごう!」
 さりげなく巻島の指先についたソースを舐めとり、真っ赤になった巻島が怒り出す前に手首を掴んで歩き出す。
「さっきのたこ焼き、後で巻ちゃんにお土産に買ってやるから遠慮はしなくていいぞ」
「……はあ? べ、別に……」
「いいや、お土産だ。そして家で食べてくれよな、巻ちゃん」
 そして、気づいて欲しい。
 水っぽい生地と、ちょっぴりの材料。タコすらハズレがあったあのたこ焼きは、本当は不味いのだと。一人で食べた味はきっと最悪だ。
 祭りの賑やかな雰囲気や、一緒にいた人間の存在が味を底上げしていたと、祭りの後の寂しさとともに、舌までも寂しくなってくれればいい。
 そうして祭囃子が潰えた耳で、電飾が消えた瞳で、打ち上げた花火が光を失い夜にたなびく煙と化す物悲しさで、なによりも傍らの自分が居ないことで、どんどんどんどん巻島は寂しくなってしまうだろう。
 その寂しさの中で、東堂は巻島の心に刷り込まれる。寂しさを知り、同時に裏側にあった喜びは一緒に居た東堂の存在だと記憶するはずだ。
「巻ちゃん、巻ちゃん、楽しいな!」
「……お前のハイテンションについていけないっショ……」
 楽しさと寂しさは表裏一体で、寂しさを覚えなければ得られない喜びがある。
 東堂はその喜びを与えたかった。同時に自分も欲しかった。

 いずれ最後の夏と最後の山で得る、最上の喜びと寂しさを今から堪えるためにも。
 
                                 終