東巻

イチャイチャパラダイス

 天気予報は爆弾低気圧の襲来を告げていた。
 曰く、雨と雷と風にはご注意ください、である。
 そんなもんがフルセットでやってくれば、警戒しない方がおかしい話だ。ああ、これは明日の山は登れねェなぁ……忸怩たる思いで巻島は奥歯を噛みしめた。
 もはや恒例と化した土日を使っての個人練習の名を借りたクライム勝負。通算成績で一勝分ぶん負け越している巻島は、明日はなんとしてもあの愉快なカチューシャ頭を引っこ抜いてイーブンにしたかったのだ。
 ちなみに本日の成績こそが勝敗のつかない引き分けで、負け越している巻島に不満も溜まろうかと言う話だ。
 正式なジャッジがない個人練習では、決定的な差が生まれない限り同着と見做している。自分たちで写真判定も機材もないのに、限界近くまでペダルを回した脳で微妙な判定を下せと言う方が無理だろう。
 今日の個人練習もそうだった。巻島は東堂の背中を見てないし、東堂も巻島の背中を見ていない。ただ互いの髪や横顔が見えただけだから、やはりこれは引き分けにするしかない状況だった。
 巻島の予定として今日は東堂に勝って星を戻し、明日も東堂に勝って一勝ぶんの星の差をつける肚づもりだったのに天候が荒れ模様とは。
 不服だ。非常に、不服だ。
 加えて言うなら、お天気ニュース直前に風呂から上がってきた東堂がお天気情報を確認し、ほんのり楚々と頬を染めているところも。その原因が湯あたりではないと巻島は確信していた。
「……なあ、巻ちゃん。この天気では明日は山に登れないな」
 胡坐で立て膝に頬杖。そんな男らしくニュース映像を見る巻島の隣で、もじもじと正座で床にのの字を書く東堂。
 気象予報士ならず、東堂気性予報士な巻島は、非常に発達した不安定なピンク雲を予想し始めている。
「……まぁ、ムリだな。公式レースならともかく、荒れた天気の中、練習でケガはしたくないっショ」
 のの字、さらに渦を巻いて異常発達中。
 ぴと、と、湯上りでまだ熱くしっとりした東堂の肌が巻島の腕に張り付いてきた。ちなみに巻島はとっくに風呂上りで湯冷めした肌だ。肌の白さも相俟って、常温動物東堂と低温動物巻島の邂逅に見えなくもない。
「……勝負ができないなら……その、巻ちゃん?」
「ハイ、却下」
 素晴らしい即答ぶりだった。出鼻を挫くどころか、鼻そのものが陥没しかねない勢いである。
「ぬ! 巻ちゃんっ、オレは何も言ってないぞ!」
 正座した膝の上に拳骨を並べて置いた東堂が向き直る。中華料理のテーブルみたいに器用な奴だ。
「お前の考えることなんかお見通しなんだヨ」
 雨が降る前に傘を開くような、そんな用意周到ぶりで秀でた東堂のおでこを突っつく。厄介なことにデコ攻撃に手心を加えてしまったのは、カチューシャを外した濡れ髪の東堂は二割増し美形で三割増しに可愛いからだ。中身は残念なくせに外見が良いなんて、ずるい男だと思う。
「むう……巻ちゃんとオレは常に阿吽の呼吸、おしどり夫婦、あるいは鴛鴦の契りと言うやつだな!」
 国語は得意なのか意気揚々と笑うが、先を見据えた巻島は可愛さ半分・鬱陶しさ半分の気持ちである。
「……あのな? おしどりって仲よさげ見えるけど、仲がいいのは繁殖期だけっショ」
 一生涯つがいに思われる鴛鴦だが、実は繁殖期ごとにペアを変えているのだと、生物が得意な巻島は東堂に教えてやる。
「そうか! 繁殖期か! 心得たぞ、巻ちゃん!」
 喜色満面で飛び込んできた東堂を支えきれず、二人そろって床になだれ落ちて巻島は己の失態に気づく。しまった。変なスイッチを入れてしまった。東堂尽八という男は恐ろしくポジティヴな男だったのだ。
 巻島が仰向けに、その上に覆い被さる形で東堂がにっこりと笑う。ああ、笑った顔は可愛んだよなァ……顔だけは。
 手の早さは戴けないが。
 覆い被さると同時にパーカーのファスナーを下し、下に着ていたTシャツまで捲り上げられた巻島は、遠慮なく東堂のつんとした鼻を摘まんでひねった。東堂尽八なる男は全く以て無駄に器用で手が早い。
 ふぎゅだかむぎゅだか、そんな悲鳴を残して東堂が巻島のTシャツから手を離した。
「ひどいぞ、巻ちゃん! この美しい顔にそんな無体を働くとは……!」
「無体はお前の方っショ!」
 巻島の正当な抗議に唇を尖らせた東堂が「繁殖期なのに……」とか、訳の分からないこと言い始めて巻島は嘆息してしまった。
 染色体がXY同士で繁殖を頑張っても意味がないだろう。おしべとめしべから教えなくてはならないのか。保健体育の実技は満点のくせに、筆記は赤点だったのかと疑いたくなってしまった。
「だって巻ちゃん、明日は荒れ模様だぞ? 山には登れんぞ?」
「あー、そうだな」
「一番大事な巻ちゃんとの勝負ができないなら、二番目に大事なことをしていいじゃないか」
 擬音があればぷんぷんと出そうな勢いで、再び東堂は巻島の首筋に覆い被さる。くふんとした鼻息は巻島の匂いを嗅いでいるのかもしれない。
「代替え行動がおかしいっショ」
「自転車に乗れないなら巻ちゃんに乗りたい」
 じゃあ自転車に乗れなくて、東堂に乗られる俺の立場どうなるんだよ……そんな言葉を吐き捨ててやりたいが、濡れ髪+カチューシャ無しで二割増しに男前で三割増しにキュートになった東堂には、あまり強く出れない巻島だった。
 はっきり言おう。
 巻島は面食いだ。
 しかも東堂の顔は、むちゃくちゃ好みだ。
「なー、なー、巻ちゃん。いいだろ? な? な?」
 巻島の首っ玉に齧りついて東堂が甘えてくる。
「だ、ダメに決まってるっショ!」
 どこにいても巻島を捕えそうな大きな双眸から視線を外し、冷静になるように「水兵リーベ僕の船」などと口腔で元素の周期表を唱えてみる。
 頬を膨らませた東堂が、ずるっと下へ降りた。
「ちょっ……」
「なあなあ、巻ちゃん。ちょっとだけ。ちょっとだけでもダメ……か……?」
 巻島に裸の胸にぺっとりと頬を寄せ、上目使いに語尾を揺らめかせる。大きな瞳の使い方といい、普段は強気な男前が不安げな表情を浮かべて阿る態度いい、どこでそんな技を覚えてきたのやら。うっかり絆されそうになって慌てて巻島は気を引き締めた。
「だ、ダメっショ」
 言った途端、背筋がぞくりとした。
 東堂の頬は巻島より丸みがあり、その溌剌した弾力といい、瑞々しい肌といい、じかに触れた者のみが味わえる東堂の秘密のチャームポイントだった。弱みでもあるチャームポイントですりすりと肌を撫でられては抗い難くなるではないか。しかも東堂はまだやわらかい巻島のぽっちり乳首まで頬に巻き込んですりすりしてくる。
「……んっ……」
 瑞々しい頬で捏ねられて、乳首がじん……と痺れてきた。
「だ、ダメったら、ダメ、っショ……!」
 拗ねた唸り声が聞こえ、頬で捏ね回されて芯が通ってしまった巻島の乳首が解放された。ほっとしたのも一瞬だけ。
「絶対、どーしても、ダメ?」
 呼吸が触れたのは巻島の臍の窪みだ。
 贅肉などミリ単位で無さそうな薄い腹が痙攣したように跳ね上がる。
「ちょっとだけでも、ダメ? ダメかい、巻ちゃん?」
 喋るたびに呼吸が過敏な臍の窪みを急襲する。中心から甘い毒針を刺された気分だった。
「……だ、ダメ……」
 ここが踏ん張りどころだ。しょぼくれて寂しげな口調に懐柔されてはならない。
 沈黙が訪れる。数秒後、臍の窪みから脅威が去り、その次の刹那だった。
 スウェットに包まれた巻島の足が大きく広げられ、その腿の内側に東堂が添い寝するように頬を寄せたのは。
「……巻ちゃあん……?」
 限界だった。
 甘えた仕草も声も、ついでにちょっと膨らみ始めた自分の下半身も。
 乱暴に溜息をつき、仰向けになったままバリバリと髪を掻き毟る。東堂が内腿を枕にじっと様子を伺っているのが分かった。
「……ちょっとだけっショ」
 巻島が呟いた瞬間、冗談ではなく東堂の背後に後光が差したように見えた。
「うん! 巻ちゃんっ! ちょっとだけだ! ちょっとしかしないとも! 先っぽしか入れないからな!」
 沈黙。
 黙考。
 考察。
 察した。
「さ、先っぽって、おま……っ!」
 慌てふためく巻島を尻目に、東堂は巻島の白くて小さな尻をつるんと剥いていた。



 「東堂」
「はい、巻ちゃん」
 ベッドの上で真っ裸で正座状態という、微妙なスタイルの東堂は、その美しい顔面が今さまさに人生最大の危機を迎えていた。
「お前の先っぽて、何センチっショ?」
 ぎちみちぎちち。たとえるならそんな音が東堂の顔面から軋りを上げている。俗にいうアイアンクロー状態だ。
 ちなみにアンアンクローとは、顔面を鷲掴みにして握力で締めあげる必殺技だ。正確にはブレーンクローなのだが、往年のプロレスラー、フリッツ・フォン・エリックが1970年代にアイアンクローとして有名になったため、後世までブレーンクローよりアイアンクローの通り名が有名になった技である。
 まあ、万力の力で締められている東堂には技名ルーツなど関係ない話だが。
「……ま、巻ちゃん……? さすがに、痛いかも……」
 線が細く痩身の巻島だが、握力は並みの男子生徒以上だ。しかも今は怒りによる、キン肉マンお得意の火事場の馬鹿力まで加算された状態だった。
「いいから答えろ。お前の先っぽは何センチっショ? ああん? 象か? 象並みの長さかお前? 全体は何十センチあるっショ? それともメートル単位か?」
 ぎちみちぎちち。
「……えっと……すまんね、巻ちゃん……」
 ちょっとだけのつもりだった。先っぽだけのつもりだったのだ。
 が、しかし。
「巻ちゃんがあまりに可愛くて、つい前進前進また前進を……。す、すまんかった、巻ちゃん」
 素直に頭を下げたかったのだが、巻島の握力の前に顔は動かず、お尻だけをちょこんと突き出す形なってしまった。そのちょっと間抜けで、ヒヨコみたいな愛らしさに巻島の勘気もふと緩む。
「こんど嘘ついたら許さないっショ」
 東堂の顔から手を離し、巻島は苦笑いを浮かべてさっきまで掴んでいた顔を優しく撫でてやった。さすがにこの顔を破壊したくはなかったようだ。
 きょとんと巻島を見詰める顔は邪気がなくて、でも男前で、悔しいがやっぱり大好きな顔だった。
 満面の笑顔を浮かべた東堂が巻島に抱きつき、顔を締められたお返しにきつく巻島の痩躯を抱き締める。
「なあ、巻ちゃん。外はひどい雨だな」
 天気予報の通り、夜半から雨と風で外は荒れ模様だ。
「ああ、風も強えナ」
 こんな天気で自転車は乗れない。乗れるわけがない。
「じゃあ、今日はずっと仲良くしようじゃないか! 永遠のライバルにも休息は必要だぞ?」
 自転車が一番。それより上はない。
「しょうがねェな。……じゃあ、なにするんだよ?」
 決まっているじゃないか、巻ちゃん、と、抱き着く力をさらに込めながら、東堂は二人にとって二番目に大切なことを宣言する。
「今日は一日、イチャイチャしようじゃないか!」



                               終