東巻

愛情ホルモン

 有り体に言えば東堂は可愛いと思う。
 あれだ。傍から見ればぎゃあぎゃあ泣く怪獣みたいな赤ん坊でも、母親には天使に見えてしまう状況と同じ理屈だ。まさに愛情ホルモン・オキシトシン。
 オキシトシンは男性にはあまり良い結果を齎しはしないのだが、自分に限ってはそうでもないような気がする。
 巻ちゃん、巻ちゃん、巻ちゃあぁぁんっ。
 ……ウザい。
 緑の髪を見かければ駆け寄り、長い手足があれば手を握りたがり、ひねくれた唇に隙があれば接吻しようとする。百人中九十九人までが客観的に見てもウザくて面倒くさくて邪魔くさい ―― はずの、男。
 
 巻島はずらっと並んだ携帯のメール履歴に苦笑いしながら思った。
 『巻ちゃん、たんぽぽだ!』 ―― たんぽぽなんてドコにでも咲いているっショ。真っ黄色の花の画像を見て肩を竦める。
 『巻ちゃん、謎看板発見!』 ―― そりゃシカ飛び出し注意だ。箱根にあるだろ。鹿がシルエットマークになった交通標識に嘆息する。
 『巻ちゃん、ソフトクリームだ! 食いたい!』 ―― ああ、桜ソフトか。この時期限定だナ。走り終わったら食うっショ。
 この一連のメールは待ち合わせの場所へ向かう道すがら、東堂は延々と送って寄越すものばかりだった。巻島的には写メールを撮り捲って遅くなるより、さっさと来やがれという気分だが、別段東堂が遅刻している訳ではなかった。単に巻島が待ち合わせより早く着いてしまっただけだ。
 風体に似合わず几帳面な巻島にとって時間厳守は当たり前のことだったが、さすがに一時間以上も早く着いてしまったのは……まあ、自分のテンションもそれなりに上がっているのだろう。
 今日から卒業旅行がてらに東堂と桜前線を追う自転車旅行を計画していた。
 高校での勝負はあの夏で終わった。この春からは大学に舞台を変えて、再び鎬を削り合う熱戦を繰り広げるのだ。
 今回の旅行はいわば熱戦前の小休止といったところか。
 小さなディバックに必要最低限の荷物を入れ、足りない物が現地で補うか、先に決めた宿泊先に送っておいた荷物の中から補充するか……そんな身軽で気ままな自転車二人旅だ。
 むろん、行程に山や坂があればそこで勝負が繰り広げられる。
 無愛想な表情では分かりにくいかもしれないが、巻島の今の気分が遠足前の幼稚園児とあまり変わらない。
 『巻ちゃん発見!』
 最後のメールは画像もなにもなく、ただ一言だけだった。巻島が携帯の画面から目を離したところで、白いリドレーに乗った東堂が大きく手を振って近づいてきた。


 巻ちゃん、巻ちゃん! 巻ちゃんは内風呂か? ならん! それはならんね! 大浴場に行くならこの美形がお相手しようではないか!
 ひと勝負後の宿で、東堂ははちきれんばかりの笑顔でそう言ったものだ。無駄に高いテンションはいつも以上で、なんだか軽く煩わしなと巻島は嘆息してしまった。
 たぶん、旅の初日で最初の勝負に勝ち、意気揚々のまま着いた宿が予想外に豪華でテンションが臨界点に達したのだ。初日から勝負に負け、どんな宿なのか予め知っていた巻島の方は、テンションが控えめ傾向だ。
 初日の温泉宿は学生の身分ではなかなか豪勢だが、これは単に巻島の父親から宿の優待券を貰っていたおかげだった。他にも幾つか優待券は貰っているので、宿は質素だったり豪華だったりを繰り返すのだが、宿が豪華なたびにこのテンションで来られては巻島も鬱陶しいではないか。
 このテンションを少しでも崩すためには、良い宿の日は東堂に山か坂で勝つ、これしかない。
 出発点から旅の目的が変わりつつある巻島だった。
「さあ、巻ちゃん! いざ温泉だ!」
「いや、お前……今、上がってきたばっかっショ?」
 温泉など箱根の山で、それこそ温泉成分が肌に染み込んでいそうな東堂なのに、ひと休み中の巻島を尻目に速攻で温泉に出かけてしまっていた。その間は静かだったのだが、戻れば戻ったで、一緒に温泉へ行こうと誘う始末。夏休みのプールで一定時間ごとに上がって身体を休めさせられ、休憩時間中にじりじりして一刻も早くプールへ戻りたがる小学生みたいだ。
 温泉から戻ってきた東堂はほんのり桜色肌に浴衣、頭には畳んだ手ぬぐいとマニュアル通りの格好で現れ、巻島は部屋菓子の桜餅を摘まんだまま胡乱な眼差しを向けてしまった。
 なんというか、その教本通りのクライムスタイルも正統派なら、整った容色も正統派、さらにはお約束的な温泉スタイルも正統派で、お前はマニュアル男かとツッコミたい。おそらく東堂に料理をさせたら、初心者用の料理本を片手に、調味料をきっちり計量スプーンで量る男になるだろう。
 鷹揚で大雑把に見えて意外と細かな精神を持ち合わせている男なのだ。
 それはねっとりみっちり準備を施す夜の所作からもよくわかる話だった。
「いやだ! 巻ちゃんと温泉の入るためにほどほどにしてきたんだぞ?」
 ほどほどでその桜餅みたいなほこほこ顔か。血色のいい野郎だナ。思わず手にしていた桜餅をふにふにと摘まみ、もう片方の手で桜色の東堂の頬をむにむにと摘まむ。
 驚いた。
 桜餅並みの柔らかさだ。
 愕然としてまだ柔らかさの残った東堂の頬を眺める。
 巻島は早々に子供らしい柔らかな線を失い、年齢にそぐわない大人びた容姿になってしまったが、東堂の頬のまろやかさにはまだ子供じみた線が残っていたのだと改めて思う。
 むにむに。
 さらに摘まみながら絶妙の感触の堪能する巻島だった。
「……巻ちゃん……。これはいったい?」
 頬を摘ままれた東堂は、お行儀良く上目遣いで巻島に真意を大きな目で訪ねてくる。桜餅と東堂に頬を両方揉んで軽いトランス状態だった巻島は、やっと我に返って慌てて東堂から手を離す。
「わ、わりィ。いや、この桜餅とお前のほっぺが似てたらから、つい触ってみたっショ」
 ごまかすように自身の体温でぬるくなった桜餅を口に運ぶ。とたん非難の声が巻島の耳を引き裂いた。
「ずるい!」
「……はぁ?」
「ずるいぞ、巻ちゃん!」
 桜餅を口から離し、いったいどこがずるいのかと大きな双眸を覗く。夜の湖面を覗くような漆黒の眼差しは、あまりにも澄み切っていて少々居心地が悪かった。
「ずるいって、なにが?」
 一緒に温泉に入らなかったことだろうか? そんなことをずるいと言われてしまう世知辛い世の中なのか。
「桜餅、ずるいぞ!」
 ああ、と、巻島は得心した。なんだ、こいつも桜餅を食べたかったのか、と。
「桜餅ならお前の分もあるっショ」
 東堂の分を取ってやろうとした巻島の手首は、拗ねた男の手でがっしりと掴まれてしまった。
「違うな、巻ちゃん! ずるいのは桜餅を食べた巻ちゃんじゃなく、巻ちゃんに食べられた桜餅の方だ」
 ……言ってる意味がわからない。可及的速やかに東堂語を翻訳できる人間を召喚したかった。
「意味わかんねえな」
 ふーやれやれ。胡散臭い外国人のように肩をすくめて首を振り、東堂は改めて巻島を向き直った。
「バカだな、巻ちゃん! 桜餅を食うくらいなら、湯上りほこほこ、この麗しいオレを食うがようかろう!」
 びしっと突き付けられた指に脱力した巻島を、いったい誰が責められるだろう。
「むろん、オレも巻ちゃんを食べさせてもらうぞ! ずるは無しだからな!」 
 意気揚々と抱き着いてきた東堂を脅威の背筋力で耐え凌ぎ、秀でた額を容赦なくデコピンで弾く。
「バカか、お前は」
「痛っ! 美形の顔に攻撃とは、それはならんよ。巻ちゃん!」
 巻島の腿に跨って懲りずに巻島を押し倒そうとするが、登坂で車体を揺らしてバランスを保つ巻島の背筋力は、常人のそれをはるかに凌ぐのだ。そうやすやす押し倒される男ではなかった。
 だが粘り強い登りに定評があるように、東堂も簡単にへこたれない精神力の持ち主だ。
 湯冷めしていない温かな手で巻島の頬を包み、文句を言いかけた唇をあっと言う間に塞ぐ。するりと入り込む舌先は、逃げる巻島の舌を器用に搦め取っていた。
「……ん……」
 固く尖らせた舌先が、粘膜をこそげ落とすように相手の舌を弄う。むろん弄われているのは巻島の方だ。
 湯上りの匂いと東堂の匂い。加えて舌まで弄われては背骨の一つ一つを殴られたような衝撃が走る。だがここで流されるわけにはいかなかった。ここはそれなりの風格を持つ旅館なのである。いつ仲居が布団を敷きに来るか分かったものではなかった。
 東堂の以前より厚みの増した肩に手をかけ、むりやり唇をもぎ話す。急激に冷えていく唇の温度が寂しく思えるなんて、なんだかいろいろ終わっている気もしたが、あえて唇の寂しさを無視して東堂の額に己の額をぶつけた。
「痛いぞ、巻ちゃん!」
「やかましい! オレだって痛ェんだよ!」
 言いながら桜色を保ったままの頬を両側から抓った。
「仲居さんが来たらどうするっショ」
 頬を引っ張られつつも東堂が絶句したのが分かった。明らかにそんな事態を考えていなかったらしい。うろうろ視線が宙をさまよい、一拍後にしょんぼりと跨っていた巻島の腿から降りて畳に座りなおした。
「……ごめん……」
 しょぼくれた顔に胸がじくりと疼く。
 我儘で俺様で、それなのに東堂の気質は素直すぎて巻島にはまぶしい。自分がひねくれている自覚があるからこそ、東堂の素直な態度には弱かった。
 たぶん、東堂はずっとこのままの男だろう。
 自信に溢れていて、素直で、健やかで、そんな男前になるはずだ。
 あの桜餅に似たまろい頬も、あっと言う間に大人の固い線になって美々しく成長しても、きっと東堂は東堂のままだ。
 苦笑いしつつ、まだ子供の線を残した頬にそっと触れる。
「巻ちゃん?」
 高校を卒業して、大学に進学して、そこでもきっと自分たちは山で戦い続けるのは間違いなかった。戦って競って、いつかは完全な大人になる。
 大人になったとき、自分たちはどんな形になって隣で笑っているのか。
 不思議と泣いたり、怒ったり、そんな顔で隣に居る気はしなかった。たとえいつか競技者として自転車を降りても、自転車を愛している限り変わらず同じ思いを東堂に向けている自信がある。
 周りの連中は知らないかもしれないが、実は東堂よりも巻島の方が遥かにいろんな意味で自信家で、さらには愛情もそうとう深いのだ。
 今はまだ未成熟な愛情だった。さすがに桜餅に嫉妬はしないが、東堂が誰かに秋波を向ければ嫉妬してしまうくらいに。一方的なのは嫌で、愛情の差分が許せなくて、与えた分は同等以上に返せと言うほど未熟な愛情だ。
 だがいつかは年を重ね、酸いも甘いも噛み分けて、母親が子供に向ける見返りなどを求めない、オキシトシンみたいな愛情ホルモンを持つかもしれないのだ。
「なあ、東堂。こっから二択問題だ」
「む? なにかね?」
「その一、この部屋の内風呂に一緒に入る。その二、一緒に温泉の大浴場に行く。……どっちヨ?」
 ぱちくりと目を見開いた東堂は、自信満々の顔で言い切った。
「内風呂でイチャイチャしてから、大浴場で背中の流しっこだな、巻ちゃん!」
 ああ、そうかよ。正解を導いたご褒美に桜色の頬へ口づけようとしたそこへ。
 襖の向こうから仲居が「失礼します。床は敷かれますか?」と声をかけ、二人で目を見合わせてから少し笑った。


                                終