ハロウィン企画ログ 東巻

ハッピーハロウィン 2

 ホテルの狭い浴室から出たとたん、それは巻島の眼前に現れた。
「食っちゃうぞーっ!」
 視界を覆う真っ白な物体。それはまるで深海を浮遊するイカの化け物のようだ。だが実際には化け物などではなく、おばけの正体も中身も誰で何かを巻島は知っている。溜息まじり白い物体の傍らを通り過ぎ、自分に割り当てられたベッドに腰を下ろす。
 まさに黙殺。黙する以外にどうしろと言うのだ。
 おそらく巻島が目の前に現れたおばけに驚くことを期待したのだろうが、おばけは正体不明だからこそ怖いのであって、正体がわかれば怖くもなんともない。幽霊の正体見たり、枯れ尾花。そんな言葉が頭の隅を過ぎっていった。
 ホテル特有の糊が効いた真っ白なシーツは巻島側にあり、乱れたもう一つのベッドにシーツははない。つまりは引き剥がされたシーツの正体があの真っ白おばけだ。
「つまらん。つまらんよ、巻ちゃん。もっと絹を引き裂くような悲鳴を上げたらどうかね」
 のこのこと真っ白い物体が浴室側からベッドの方へ歩み寄ってくる。その足取りが慎重なのは、被ったシーツで前が見えないからだろう。ペンじみたよちよち歩きに、よもや転んでケガをしないか、実は内心ひやひやだった。たとえレースから離れていても、山の神が愛した健脚を巻島は心から大事にしたいと思っている。
「そんな声上げたらフロントに通報されるっショ」
 呆れながら濡れた髪をタオルで拭く。悲鳴もなにも、シーツを被っただけのおばけを怖がるのは三才児くらいまでだ。十八才ともなれば、その様相に笑いを通り越して突っ込みどころが満載ではないか。
 いや、面倒くさいから突っ込みもしないが。
「むう、巻ちゃんは童心というものが芽生えん男だな。さっきのコンビニでも巻ちゃんはカボチャくんを買わなかったし」
 ふらふらゆらゆら。巨大なダイオウイカみたいなシーツおばけの声はちょっと不貞腐れている。
 そういえば山登りの後に寄ったコンビニで、やたらとシーツおばけの中身はカボチャを模ったハロウィングッズに目を輝かせていた。飴やクッキーをしげしげと眺め、「巻ちゃん巻ちゃん巻ちゃん、どれがいいかね?」などと手招きしていたものだ。
 イベントごとに淡白な巻島は呆れて肩を竦めただけだったが。
 気楽な山の勝負だった。今までのようなガツガツした登坂ではない。そんな鎬を削る勝負は暑かった夏に置いてきた。
 高校生活最後の夏が終わり部活動から引退した身だったが、習い性なのかやはり山に登るのは楽しい。シーツおばけの中身が一緒ならなおさらだ。
 夏に比べて身体は鈍っていたが、それはお互い様というところだった。もう高校生活の決着はついている。あの夏以上の勝負など望めるはずもないのだ。
 それにこうやって旅行気分で山を登るのも秋までだった。高校三年生ともなれば受験や就職活動という、厳しい現実との最終局面だ。
 互いに具体的な進路の話はしていないが、推薦を受けるなり受験をするなり、あるいは就職活動を考えるなり、これから気忙しくなって一緒に山を登る機会も減ってしまうだろう。残念だが仕方がない。
 夏が過ぎ、秋が来て、冬になったらどんどん自転車に跨る時間はなくなるはずだ。秋の連休を潰して自転車旅行に行こうと誘ってきたのも、これから思うように自転車に載れなくなる状況を分かってのことだったのかもしれない。
 だからといってシーツおばけは頂けないが。
「とにかくソレをベッドに戻すっショ。くしゃくしゃになったら困るっショ」
「ええい、巻ちゃんのわからんちんめ!」
 不貞腐れた声が耳に届くや否や、目の前に大きな白いおばけが現れた。シーツの裾をからげ、正体を現し中央に居たのは夏よりもすこし日焼けの色が薄くなった少年だ。
 にわかに咲いた白いシーツの花は大きく開き、次の瞬間には食虫花のように巻島を覆って木綿の花弁を閉じる。白い花からシーツおばけ戻った中身は、巻島をも飲み込んで己の一部としてしまっていた。
 シーツごと抱きついてきた力に挫けてベッドへ背中から倒れ込む。室内灯は点いているが、白い木綿のシーツ一枚ですら視界が仄暗くなった。
「……お前、部活やってないから太ったっショ? 重いっショ」
「失礼だな、巻ちゃん。美形がそんな怠惰な肉体になるはずがないだろう! ……オーバーウェイトはたった一キロだ」
「……太ったんじゃねえか」
「春になったら痩せる。……今度は巻ちゃんと四年間の長丁場の戦いだからな。ウェイトオーバーしてる暇などないな!」
 秋の小旅行中、なんとなく聞き辛かったことをあっさりと言われてしまった。なんて唐突なのか。しかも四年間。大学に進学して、また競い合うと言うのか。
 にやける唇を押さえ込もうとしたら、なんだか苦笑いみたいになってしまった。
 できたてほやほやの苦笑を塞いだのは、苦味のない笑いを刻んだ唇だ。
「……だから、シーツがくしゃくしゃになるっショ」
「オレは糊でバリバリになったシーツが苦手だからな! やわらかくして貰うのを巻ちゃんに手伝ってもらうだけだな」
 オレは糊の効いたシーツが好みなんだがなあ……そんなことを思いながら、くるりとシーツに包まれて嘆息する。糊が効いてた自分のシーツも、このまま背中で捩れてくしゃくしゃになってしまうのは明白だった。
 もそもそと世間から隠れるようにシーツに包まった物体がうごめき始める。
 幽霊の正体見たり、枯れ尾花。
 先刻までは深海に潜むダイオウイカ風味のおばけだった。増えた体積と二重の動きで、今度は磯辺のヒトデ風味おばけが現れた。
 その中身は次の春まで足を休める、ちょっとダメな男の子たちだった。



                               終