東巻

アポロ★★チョコ 前編

 二月。
 男の子も女の子も気が漫ろになる魅惑の季節。
 とは言え学生の身で心躍るイベントばかりに感けてはいられなかった。試験を間近に控えたせいか、いつもは賑やかな箱根学園男子寮もこの時期は比較的静かだ。それもそのはず。赤点など取ろうものなら、教室だけではなく寮内の監督室でみっちり補習を受ける羽目に陥ってしまう。
 ナイスバディな女教師の個人授業なら大歓迎だが、そんな夢みたいなうまい話があるはずもない。ほとんどは強面の厳しい男性教師か、あるいは二十年以上前ならセクシーだった女教師がお相手だ。
 そんな悲しい青春を送ってなるものかと、赤点対策に有効なノートのコピーや先輩たちから譲り受けた過去問題集を片手に、寮内で親しい者同士が集うのも当然の話であろう。
 試験勉強ですら面倒くさそうな雰囲気を醸し出す荒北は、同じクラスの奴から譲り受けたノートコピーを持って福富の部屋に向かっている最中だった。自分の苦手教科ではなく、福富の苦手教科のノートコピーを持ってくるのが彼らしい。
 三年生が去年の夏で引退した今、荒北は次期エースであり主将でもある福富のアシストだ。自転車以外はちょっぴり抜けている福富のフォローなど、もはや呼吸するのと同じくらい自然なことになっていた。
 福富のいる部屋をノックもなく開ける。室内を睥睨し、ぽつりと荒北は呟いた。
「フクちゃん、そんなの傍に置くと変な病気が移るから、できるだけ隅っこに行った方がいいんじゃナァい?」
 試験対策の虎の巻を抱え、扉を開けた荒北の第一声がこれだった。
「靖友、それはイジメじゃないのか? ……寿一に対して」
 ノートを開いていた新開の第一声が、これ。ちなみに荒北の進言をまともに受けた福富は部屋の隅っこに移動しようとしている。強面の鉄面皮がこそこそと部屋の隅へ向かう姿は、ちょっと哀れを催すありさまだった。
 三年生引退後に晴れて主将の座についた福富、エーススプリンターの新開、そしてノートも開かず携帯を眺めているエースクライマーの東堂とエースアシストの荒北を加えた四人は、自転車競技部としてもふつうの生徒としても親しい間柄だった。
 同時に箱根学年内外を問わず、非常に人気の高い四人組だ。
 特に自転車競技部でバレンタインチョコの山を築くツートップは東堂と新開だった。爽やかな容姿もさることながら、福富や荒北に見られる近寄りがたさがこの二人にはない。
 そして福富に変な病気を移さないかと荒北を腐心させている病原体が、ツートップの一角であるはずの東堂尽八だった。 
 東堂はノートも参考書も見ず、にやにやと緩んだ顔で携帯電話の画面を眺めている。
 蜘蛛か?  ―― 蜘蛛だろうなァ。
 うんざりしながら荒北は後ろ手に扉を閉めた。
 恋の浮名は数知れず。学園内外にもファンクラブを持つ東堂は、ここ最近新しい恋人に逆上せ上がっている。
 別に東堂がどこの誰と付き合おうが、しっかりペダルを回して山頂リザルトを取るなら問題はない。人の恋路に分け入るのは野暮と言うものだ。
 だがその相手が他校の自転車競技選手であり、去年の春先から名前が売れ出したクライマーでもあり、ついでに男である部分はかなり問題かもしれないが。
 去年の春に行われたヒルクライムレースで天狗の鼻をへし折られてから、東堂はやたらと鼻をへし折った男に執着し始めた。夏ごろまではごくごく当たり前なライバル関係だったが、冬を迎えるころには東堂曰く「ラブい関係」になったという。
 玉虫色の長髪と細長い男の手足を知る荒北は悪趣味なことで……と呆れたが、まあ東堂の人生だから好きにすればいい。肯定も否定もせずに生温かい目で絶賛放置中の荒北たちだ。
 しかし相手が男では他に話せる相手もなく、必然的に事情を知る荒北や新開にやたらとどーでもいいノロケを聞かせてくる状況は勘弁して欲しい。
 ただし事情を聞かされてもなお、自転車以外に頓着のない福富はよく分かっていないようだが荒北的には好都合だった。自分と福富に危害が及ばなければどうでもいいと考える荒北は、フクちゃんはそのままピュアでいてくれと星に願っている。
 それなのにピュアピュアな福富の傍でニヤケ面を晒すのは我慢ならなかった。試験勉強に身が入っていないとまっとうな方便も使わず、荒北は容赦なく己の踵を東堂の脳天に叩き落とした。軸足にぶれがないからこそ、悪趣味なカチューシャを避けた見事な蹴りだった。
「ネリチャギか。しぶいな、靖友」
 真横で友人が踵落しを食らっても表情ひとつ変えずにサムズアップする新開。
「あー、フクちゃん。コイツに絆創膏はいらねェから」
 踵落しになぜか絆創膏で治療しようとする福富を制し、ドSな女王様スタイルで頭を抱えて蹲る東堂を睨みつけた。
「おおおおおおお、脳が揺れる……! なにをするかね、荒北! オレの美しい頭頂部にたんこぶができたらどうする気だ!」
「膿んだ頭は捨てて、たんこぶの中にまともな脳を移植しろ」
 取り付く島もなく荒北は吐き捨てる。
「気持ち悪い顔をフクちゃんに見せるんじゃねェヨ! フクちゃんの情操教育に悪いだろうが!」
「目の前で踵落しの暴力は情操教育的にどうなんだ?」
 荒北、新開の突っ込みは華麗にスルー。
「気持ち悪い顔とは聞き捨てならんな! この美形を前にそんなザレゴトとは貴様の目は節穴か!」
「ニヤケてりゃ美形と言ってもタワゴトだよな……あ、ザレゴトもタワゴトも、漢字で書くと戯言で同じなんだな」
 新開のどうでもいい突っ込みは東堂にさえスルーされる。
「なにが美形だボンクラ。どーせまた待ち受けの蜘蛛でも見てニヤケてたんだろ」
「む、巻ちゃんの待ち受けではないぞ! いや隠し撮りした巻ちゃんは非常に魅力的だがね、それとこれとは話が別だ! オレはただ巻ちゃんからのメールを見ていただけだ!」
 携帯電話を水戸黄門の印籠のように差し出す東堂。
「……話が別になってないよな。むしろ同軸じゃないのか?」
 ノートを捲りながら新開がぽつり。
「見ろ、このメールを!」
 荒北は印籠を見せれば悪党が平伏する天下の副将軍・水戸黄門派ではなかった。どちらかと言えば八代将軍・徳川吉宗と名乗っても、悪党に「上様がかような場所に居られるはずがない、斬って捨てい!」と将軍の威光はどこへやら、そんな切ない暴れん坊将軍派だった。ゆえに翳した携帯電話に感銘も受けずに鼻を鳴らす。
 ここはひとつトラウマになるくらいの言葉責めで泣かせてやろうと口を開きかけたが、目の前の画像に違和感を覚えて首を捻った。
「……アポロチョコ?」
 画面にはアポロチョコが一粒ちんまりと映っている。
 人類悲願の月面着陸に成功したアポロ11号。それに便乗する形で発売された明治製菓のロングセラーチョコレートだ。
「うむ! チョコだ、チョコ! この意味が分かるかね、荒北?」
「はぁ? 知るかよバァカ」
「風情のないヤツだな……。いいか、今は二月。二月と言えばバレンタイン! 巻ちゃんにバレンタインチョコを毎日催促したところ、ついに昨日これを送って来てくれたのだよ!」
 ……。
 ……。
 ……。
 荒北は沈黙した。新開は顔を上げた。福富は分かっていなかった。
「えっと、つまり、蜘蛛野郎がバレンタインとしてその画像を送ってきたのか?」
「そうとも!」
 東堂尽八、大威張り。
「アポロチョコ、一粒?」
「うむ! アポロチョコとは巻ちゃんも浪漫を介する男だな! 宇宙一オレが美しいと言ってくれているのであろうな!」
 東堂尽八、奢り昂ぶる。
「ちなみにアポロチョコのピンク部分のイメージは地球帰還船だ! つまりはオレの元に必ず返って来るという意味だな! ここはテストに出るところだぞ?」
「……いやフクちゃん、ソコは出ねェから」
 黙々とノートを取った福富を制しつつ、一方でしみじみと荒北は思った。アイコンタクトで新開も同じ気持ちだと理解できた。
「お前、すっげー幸せ基準値のハードルが下がってねェ?」
 去年の東堂と言えば、持ちきれないほどのバレンタインチョコを貰っていたはずだ。いや、今年もそれこそ本命チョコを含めて山ほど貰うだろう。
 その男が携帯メール画像のアポロチョコ一粒で喜ぶとは、あまりに不憫で泣けてくる。ふだんの蜘蛛野郎の態度が窺い知れるというものだ。
「東堂」
 がしっと荒北は東堂の肩を掴んだ。口調や態度と裏腹に、意外と荒北は情に厚い。
「行け。千葉に行け」
 がっくんがっくん肩を揺さぶりながら荒北は熱弁した。
「今日は土曜日だよナ? 千葉に行って蜘蛛野郎にせめて実物のアポロチョコを貰ってきやがれ! これは選別だ!」
 勝手知ったる福富の部屋。レーパン用に買い置きしてあったワセリンチューブを掴んで東堂に押し付ける。
「全部使い切る勢いで行ってくればいいじゃナァい!」
 このままではあまりにも不憫過ぎるではないか。獲物を追う野獣の気迫で荒北は東堂を支援した。
「そういうコトなら……」
 新開が尻ポケットから財布を取り出し、財布の中から月面アポロ計画ならぬ明るい家族計画の必需品、コンドームを二枚手渡してくれた。
「じゃあこれも……」
 荒北の盛り上がりの意味も分からないまま、福富がなぜか踵落し時に取り出していた絆創膏を東堂に手渡す。星型に星の王子様がプリントされたキッチュな絆創膏だった。
「……お前ら……この山神を泣かせるとはな! わかった。東堂尽八、行きまーす!」
 厚い友情に感涙でむせび泣く東堂。見事な敬礼を返し、アムロ・レイのように千葉に向けて飛び出していく。ガンダムが飛び出す射出カタパルトの代用は愛車のリドレーだろう。
 友人の背中をうんうんと見送る荒北と新開に冷静な、とても冷静な福富の声が響いた。
「しかし試験勉強もせんとは、あいつ、次のテストは監督室で補習じゃないのか?」
 自分が赤点じゃなければいい。荒北と新開は無言で頷き、大人しく参考書やノートを広げ始めた。


 ……なんか悪寒がするっショ。
 箱根から離れた千葉。私立と県立の違いはあっても、この時期にテストがあるのは巻島も同じだった。
 真面目に問題集に取り組んでいた巻島だったが、まるでアムロとララァのニュータイプ同士のように直感に訴えてくるものがある。
 なんショ、これ? 風邪? いや、風邪ではないっショ。でも迫り来るこの悪寒は……。
 次の瞬間だった。メールの着信音が響いたのは。
 恐る恐るメールを見れば東堂からたった一言。

 今、巻ちゃんちに向かっている。

 糖分補給に置いてあったアポロチョコの箱が、かたんと倒れて落ちた。


                               続