東巻

アポロ★★チョコ 後編

 「巻ちゃん、今、千葉県にいるよ」
 「巻ちゃん、今、房総半島にいるよ」
 「巻ちゃん、今、総北校下にいるよ」

 ……なんのホラーだろう、コレは。巻島はメールが届くたび、都市伝説でこんな話があったはずだと背筋を震わせる。
 私リカちゃん。今、駅にいるの。私リカちゃん。今、あなたの部屋の前にいるの。 ―― 私リカちゃん、今、あなたの後ろにいるの ―― 。
 背中にかち割り氷を投げ込まれた気がした。怖い。後ろを振り返るのが途轍もなく怖い
 振り向きざまにリカちゃん……ではなく、カチューシャ妖怪藤堂がいたら肝が冷えるどころか、全身が冷えて死後硬直を迎えそうだ。
 いや、しかし。いくら音もなく山を登るスリーピングビューティーでも、さすがに背後にはいないだろう。このご時勢、勝手に巻島家の玄関をくぐっていたら、ただの不法侵入の犯罪者である。
 自分で出した結論に安心し、一息つきかけたところで携帯が鳴った。
 「うわっ」
 一息ついた瞬間に狙い済ましたような嫌なタイミング。おっかなびっくりメール本文を見れば、「巻ちゃん、今、部屋の前にいるよ」 ―― 。
 真っ青になって勢いよく自室のドアを開けた。次の瞬間、巻ちゃあぁぁんッ! と能天気な声が鼓膜を穿ち、顔面は土気色になってしまった。
「な、な、ななな、なんで!?」
 都市伝説、光臨。
「お、お前、勝手に家に……リカちゃん人形か!?」
「むぅ、確かにオレは人形のように美形だが、リカちゃん人形ではないな!」
 ここに箱根学園突っ込み担当の荒北がいれば、「どっちかってぇと五月人形の金太郎じゃなァイ?」と笑っただろう。ふだんならばいざ知らず、今回に限っていきなり門も玄関もすっ飛ばして現れた都市伝説に、巻島はどう突っ込んでいいのか分からなかった。
「それに勝手に入ったわけでもないな。巻ちゃんの御母堂が玄関で、裕ちゃんのお部屋は分かっているでしょうからどうぞって、そう言って下さったぞ?」
 人付き合いが苦手で友人も少ない息子の交友関係で、明るく人好きのする東堂は特に母親のお気に入りだ。東堂の顔を見るなり喜び勇み、息子に意志確認も取らず家へ上げてもおかしくはない歓待ぶりだ。だがこのタイミングはまずかった。
 いきなり来るな、試験勉強中だ、帰れ。出鼻を挫いて先制攻撃してやるつもりが、気持ちも態度もすっかり後手に回ってしまった。
 つまり不躾な来訪者である東堂をなし崩しに許してしまう形となる。
「ところで巻ちゃん、廊下はいささか寒いと思わんかね?」 
 箱根からここまでのこのこやってきた東堂の鼻の頭がすこし赤かった。風邪を引かれても困るし、しぶしぶ空調の効いた室内に招き入れる。
 ああ、もう……なんでこんなコトに……。
「……あー……あったかぁい……」
 部屋の空調と、痩せた巻島の背中にぺったり張り付いて暖をとる東堂は至福の表情だ。
「お前、なにしに来たっショ」
 臆面なく甘える東堂に悪い気はしないが、一応わざわざ千葉まで来た男の動機をまず聞かねばなるまい。
「おお、そうだ! いかんいかん、忘れるところだった!」
 巻島の背中に未練を残しつつ、東堂が背中からぐるりと回って巻島の正面に移動する。
「……巻ちゃん」
 正面から真っ直ぐ向けられる澄んだ瞳。巻島は東堂の顔を正面から見ることが苦手だった。けちのつけようのない、整った正統派の顔立ちとひたむきな眼差し。これを見れば世の女の子が黄色い声援あげ、熱い眼差しを送るのも分かる気がする。
 巻島を見詰めながら、東堂は白い両手をそっと握り締めて囁いた。
「アポロチョコ、くれないか?」
 頭が真っ白になるとはこのことだ。
 すこーんと色が抜けて真っ白になった頭に、感情の色が戻るまでしばらくの猶予が必要だった。
「アポロチョコ?」
「そうだ、アポロチョコだ! 写メじゃないぞ? 本物のアポロチョコだぞ? それを貰えないとオレは箱根に帰れんよ!」
 両手を握りきらきらした瞳で見詰められ、巻島の顔から表情が剥落していく。無言のまま手を振りほどき、机の上に置いてあったアポロチョコの箱を手に取った。
 恋人じゃないか、バレンタインチョコが欲しいと駄々をこねる東堂に、これでいいかと一粒だけアポロチョコを写メして送ったのはつい最近の話だ。その後ちょこちょこ食べていたから、箱の中身は残り少なかった。
 そろえた両手を差し出してねだる東堂を眺めながら、箱の中にあったアポロチョコを一粒残らず己の手の中に落とした。
 次の瞬間。
 まるで毒を煽るように纏めて自分の口の中へ放り込む。
「あー!」
 虫歯ひとつない皓歯が無情にもがりがりと東堂の浪漫を噛み砕いてしまった。
「なんてことをするんだ巻ちゃん! それはオレのアポロチョコだぞ!?」
「オレのもんっショ。あとこれで用はないっショ。さっさと箱根に帰れ」
 つーんとそっぽを向く顔には明らかな怒気があった。期待を裏切られた恥ずかしさが、そのまま怒りに還元されている。
 巻島の怒りを受けて打ちひしがれ、床に蹲ってうな垂れる東堂は、うわ言のように「……オレの……オレの……」と呟いていた。
「試験勉強のジャマっショ。帰れ、お前」
 ちょっと期待したのに……本心は薄い唇から吐き出されることはなく、アポロチョコを噛み砕いた皓歯の裏側に当たって喉奥へ戻ってしまった。
「それはならんよ! 巻ちゃん!」 
 半べそになった東堂は挫けず諦めない心で立ち上がった。巻島の薄い肩を掴み、ぐっと驚倒した顔に端整な顔を近づける。不意をつかれて開いた唇へ悔し涙が滲んだ唇を重ねて呼吸も甘いフレーバーも奪ってくる。
 唇、接触。舌、侵入。
 一連の流れは素早く無駄なく隙もなく、唇を奪われた本人が目を白黒させるほどの匠の技を見せ付けてきた。生きていく上でこんなところばかり上達してもどうなのか。お喋りも軽やかだが、舌の動きはもっと軽やかな東堂の舌は、巻島の口腔を一巡してからようやく離れてくれた。
「足りん……ぜんぜん足りんぞ!」
 なにがだ! 口を手で押さえたまま巻島が唸る。 ―― 死刑だ、このバカ。そう言ってやりたかったが、口腔を蹂躙された唇は痺れてしまって発音が不可能だった。
「アポロチョコはオレのものだったのに一欠けらも残ってなかったぞ! 巻ちゃんのいやしんぼめ……風味しか味わえなかったじゃないか!」
 半べその顔で東堂が巻島を糾弾するが、こちらとしても責められる謂われは無い。勝手に家にやってきて、ちょっと期待させながら勝手なこと抜かして、身勝手にも駄菓子を寄越せとごねたのは東堂の方だ。
「いいか、巻ちゃん? アポロチョコの先端は地球帰還船をイメージして作られたんだぞ? そのスペックが今となってはファミコン程度の処理能力だったとかどうでもいい。だがそうやって地球帰還船は地上に戻ってきたのに……」
 だからどうした。半べそ顔がちょっと可愛いと思いつつ巻島は嘆息する。
「だがオレのアポロチョコは巻ちゃんに食われてしまった! ならば地球帰還船が戻ってきたように、オレにもアポロチョコの先端は戻るべきだ!」
 どんな理屈だと巻島は呆れてしまった。そもそも胃袋に到達したものをどうやって返せというのだ。
 巻島の反応の鈍さを逆手に、東堂が一気に間合いを詰める。もつれ合うようにして床に巻島を押し倒すその技はもはや神速。さすがは山神、神の領域だった。
 ぺろん。
 神の手が下した行為は、巻島の着ていた服を胸まで捲ることだ。巻島の情報処理能力は1980年代のファミコンレベルだが、東堂の情報処理能力は現代のWiiクラスだった。早い話がファミコンの400倍のCPU速度を持っているのだ。
 東堂の場合は、おもにラブい速度の方で。
「……ちょ、おま、え!」 
 洋服を捲り、肉の薄い胸を晒しながら、なぜか東堂が渋い顔だった。
「アポロチョコまで育っておらんな。これでは子猫の肉球レベルだ」
 ふに。けったいな東堂の言葉の意味が分かったのは、指の腹で乳首を軽く押されてからだった。
「お、おま、お前……なに言って……ッ!」
「む? 巻ちゃんは知らんのかね? 肌が白い巻ちゃんの乳首は実に愛らしいピンク色だぞ? 先ほども言ったが子猫の、それも白い子猫の肉球みたいだ」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。深海から釣り上げられた魚のように、口から内臓が飛び出しそうに息苦しい。
「でもオレが頑張れば立ち上がって、まさにアポロチョコの先端ごとくつんってなるのだよ! ……という訳で、オレに帰還すべく発進」
 巻島が異議を唱えるよりも早く、さんざん好き勝手ほざいていた東堂の唇が不意に黙り込んだ。巻島の炯眼に恐れて引き下がった訳ではない。彼の唇は巻島の乳首に向かい、子猫の肉球タイプからアポロチョコの先端にするという熱い使命を帯びたのだ。
「よ、せ……ッ!」
 ちゅ、とか、くち、とか、巻島の呻きは淫らな音に阻まれて東堂の耳には届かない。まるで母親の乳房に顔を埋める赤ん坊みたいだ。
 よく言えば丁寧に、悪く言えばしつこく、詳しく言えば執拗にねぶりながら東堂は己の目的を果たそうとしていた。
 その頑張りを別の部分で活かせない辺りがあらゆる意味で可哀想だ。
 だが東堂の努力はそれなりに報われ始める。やわやわとしていた感触が次第に固くなり、控えめだった部分がぷつりと尖り出してきた。罵声を浴びせていた巻島の声も、だんだん艶かしいものへと変化していく。 いつも数倍以上の時間をかけて、やっと東堂が自分命名巻島のアポロから離れてくれた。
「……」
「すげえ、尖ってる」
 唾液で濡れたそこは確かに固く尖っていた。
 舌先で執拗に弄われたまりに、皮膚が舌で削り取られて薄くなった気がする。過敏になった部分が外気に触れて急速に体温を失い、その冷たさに濃い色になった先端がびくびくと震えていた。
「……巻ちゃん、下の方もすっげえ尖っている。……このままぜんぶシテもいい?」
 外気に晒された先端を指で扱きつつ言われては、快楽に弱い巻島に抵抗できるはずがないではないか。
 忌々しげに唇を噛み、羞恥で真っ赤になった顔を腕で覆って頷くだけだった。


 かくて、東堂は見事アポロ(先端)計画は完遂された。
 ついでに荒北の餞別だったワセリンチューブはとろとろに溶けて活躍したし、新開プレゼントのコンドームもきっちり使い切った。友情に咽び泣く東堂は彼らに感謝しきれないくらいだった。
 だが一番活躍したのは、実は福富が渡してくれた星型絆創膏だ。
 執拗な舌と指の玩弄に、巻島の脆弱な皮膚と神経は過敏な反応を示すようになった。風呂に入っても沁みる。服を着れば擦れる。怒りと恥ずかしさで渋面を作り、最後は情けない表情になった巻島には非常に申し訳なかった。せめてものお詫びに東堂はそっと星型絆創膏を取り出したのだ。うまい具合に絆創膏は二枚有る。
 42.195キロ走るマラソン選手は、ワセリンを塗ったり二プレスを貼ったり、常に乳首をガードしている。そうしなければ42.195キロの間に、服の摩擦で乳首から血が出てしまうからだ。
 巻島にそんな痛みを与えたくなかった東堂は、ふて寝のまま寝入ってしまった巻島の腫れたアポロに、そっと星型絆創膏で保護してあげようと試みたのである。

 翌朝、胸を見て怒り狂った巻島に足蹴にされ、さらに箱根に帰れば帰ったで後日のテストで赤点補習となり、結果として世にも悲しい終焉を迎えてしまうのだが。
 「まァ、自業自得じゃねェ?」と、嗾けた自分を棚上げした荒北の言葉で東堂のバレンタインと二月は終了する。



                               終